私が感じる他力の問題点は、諸問題に対しての自分の考えがないために、知識に基づく理性的判断を下すことができず、相手の言いなりになる、また、自分より立場が上の人に対しても自分の考えがないために意見すら述べることができないということです。
伝説的な殺人を犯した、アングリマーラという人物がいます。
自分の先生が「私の言うことを聞いたら、奥義を教えてやる。おまえは免許皆伝になる」といわれて、その先生がいわれたとおりに人殺しをした人物です。
社会的見識、常識的判断ができる理性、良心があるならば、通常は考えられないことです。
その後、アングリマーラは仏陀の一括で正気に戻ります。
仏陀の一括で、悪霊あるいは悪魔の憑依が取れたのでしょう。
どうして、自分はこのようなことをしたのかと後悔しても遅いということです。
自分で教学を学び、精神性を高める精進をしていれば、免許皆伝?になるから人を殺すという判断はしないはずです。
むしろ、そのような免許など必要としないと判断するのではないでしょうか。
他力に頼ってばかりですと、いざというときにまったくあてにできません。
ヘーゲルは、「何にもまして学問と自分自身、この二つだけを信頼することです。真理をもとめる勇気をもち、精神の力を信じることが哲学の第一条件です。
人間は精神である以上、自分を最高に価値あるものと見なすべきだ」
と述べています。ヘーゲル哲学史講義参照
仏教的には、人間には磨けば光を放つ仏性が宿っている、それは、自分の努力精進によって輝かすことが可能であり、そこに尊さがあるのだと教えているのだと思います。
他力が必要な時とは、自分の力ではどうにもならず、刀折れ矢つきた時です。
自分ではどうしようもない時、神や仏に祈ることは大切なことです。
その時初めて、救いの光がさしてくるのでしょう。
親鸞の悪人正機説も、やはり危険な問題が潜んでいると考えられます。
親鸞の悪人正機説は、「善人でさえ救われるのなら、悪人はもっと救われる。弥陀の本願として、悪人こと救われるのだ」と説いています。
しかし、常識的な普通の人は、「悪人ですら救われるのだから、善人なら、当然救われるでしょう」という論理の組み立て方をすると考えます。
善を行う人より、悪を行う人が救われるというのであれば、世界はどうなるのでしょうか。
縁起の理法、因果関係を考えれば、どちらが正しいのかがわかると思います。
悪人でも救われる可能性は有るでしょう。
自分自身も聖人君子ではありませんから、悪いことはします。
悪人が救わるのには、本心からその思い、行為に対して反省の心が芽生えたときのみです。
それなくして、他力だけで救いはないと自分は考えます。
「貪・瞋・痴・慢・疑・悪見」という六大煩悩に翻弄される自分、この煩悩を克服するには、自分自身の克服しようとする意志が出発点であるはずです。
もし、他力で救われるのなら地球上すべての人が何の悩みもなく救われるでしょぅ。
仏陀が修行論を説く必要などなくなります。
やはり、そこに必要なのは自助努力であるということです。
他力依存の人は自分で判断できないという意味で霊的現象に関しても危険があると考えられます。
霊的現象をありがたがる人は、教学や修行を軽視します。
霊的現象が自分の周囲に起きると、他の人とは違うという優越感に浸れるからかもしれませんが、他力依存では、霊的現象が善か悪かの判断ができず翻弄されることでしょう。
更に、自分自身で考えをまとめ整理し、相手にわかるように話す(書く)ことができないため、他の人が考えた情報を拾い集め、評価だけをえようとする、これはやはり奪う愛なのではないかと思います。
自分の実力以上の評価を得る、得ようとすることは奪う愛であり、仏教的には渇愛に相当するでしょう。
仏陀の説かれる正しさとは、中道にあります。
自力も大切ですが、他力も大切です。
自我力でも問題ですが、まったくの他力依存症候群でも問題です。
両極端を否定した中道にこそ正しさを求めるべきだと思います。
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