2017年01月15日

小恍惚と神秘体験による魂の喜び 受け入れる心

小恍惚と神秘体験による魂の喜び 受け入れる心

人間の真実の幸福あるいは喜びは、内にあります。
外なる道徳規範に基づいた価値観によって人間は、本当の喜びを得ることはできないでしょう。

聖女と言われる人達は、神秘体験によって恍惚感を得るという体験をしていると思います。
リジューの聖テレジアの場合、病床にあって聖母マリアが優しく微笑んでくれたのを見たそうです。
その優しい微笑みをみて、彼女の病気は突然に治ってしまったとのことです。
彼女の姉たちが付き添っていたのですが、重病であった彼女の顔が光り輝いて見えたと述べています。

ルルドの聖ベルナデットは何度か聖母マリアを見ています。
彼女は、骨髄カリエス?か何かの重病で、激痛があるはずですが、苦痛を訴えていなかったようです。
信仰の力によって病気が回復します。

あるいは、他の聖者たちも白光を見る、あるいは、白光に包まれるという体験を通して、恍惚感を得ているようです。
このような神秘体験をしますと、世俗的なことに関して無関心と言いますか、地上的なものに価値を見出せなくなるようです。

唐の善道は、二河白道の話をされていたと思います。
右が貪愛(奪う愛)による洪水、左が瞋(怒りの炎)その中にあって救いの道(中道)を白道と言いました。
善道も、白光に包まれる体験をしたのかもしれません。

このような神秘体験は魂にとっての一大転機であると言えます。
地上的価値観がむなしくなってくるのでしょう。

しかし、簡単に自惚れる傾向の強い人は、霊的体験をしない方がその人自身のためともいえます。
底固めができていませんと、簡単に慢心し自分が菩薩・如来だと勘違いして、上から目線の発言をするようになります。

聖人たちは自分の体験を神の恩寵と呼んでいます。
それは自分の努力によって獲得したものではなく、まさに、神からの賜物として感じられるのでしょう。
中世の聖トマス・アクィナスは、「もっともよき認識は、授けられるものです」とのべています。
(しかし、トマス・アクィナス自身は、相当努力して認識を得ています。)

正しい意味における小恍惚感を得る人の心的特徴は、受け身であるという点です。
宗教的常識として、心が澄んだ状態であり受け身の気持ちであれば、インスピレーションを受けやすい状態であるといわれています。


宗教には慈悲の心が大切であると言えます。

慈愛の心と悲しみを知るということでしょう。

マズローの臨床的観察によりますと、至高体験の被験者には、あわれみと言いますか悲しみの心が顕著だそうです。

日常の何でもない風景の中に、悲しさを感じるのでしょう。

おじさんが、おいしそうに食事をしている姿を見てかわいそうだと思う
(かわいそうという気持ちは当然、自分が上に立って思うのではなく、自然にかわいそうだという気持ちになる)

道行く人を見て、この人も地上において苦しみながら魂修行をしているのだなと思う

努力も大切ですが、日常から離れて受け身的心情になれるように意識することも大切であると思います。




ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 03:29 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。