群衆が「その男を殺せ、十字架につけよ」と騒ぎ出します。
ピラト総督は自己保身かもしれませんが、聖書を読む限り、イエス様を処刑することをためらっていることがうかがえます。
ピラト自身は、イエス様が死罪にあたるような罪を犯したとは思えない、と考えていたと思われます。
イエス様は、いろんな尋問に対して終始無言です。
弁明しない被告を処刑することは、ローマ人の習慣にはありません。ローマ帝国とキリスト教参照
そこで・・・・
「過越の祭にはひとりの囚人を赦すことにした。今年は、バラバかイエスか、どちらかを赦そう。
どちらかお前たちで選べ。バラバか、それともイエスか」
ピラトのこの選択形式の質問に私は、ピラトが多少なりともイエス様を救う気持ちがあると善意に解釈します。
バラバは最近捕まった反抗運動の首領で、暴動と殺人のかどで、死罪を免れない男です。
ピラトは、「イエスのほうを赦せ」という言葉を期待していたと解釈します。
しかし・・・
イエス様はゴルゴタ(されこうべの場)に連れていかれます。
周囲には、イエスの母マリアとマグダラのマリア、数人の人が見守っていました。
イエス様は天の父(主・エルカンターレ)に祈ります。
「父よ、彼らを赦してください。彼らはなにをしているのか、わからずにいるのです」
そして、昼の12時頃から地上の全面が暗くなって3時に及びます。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われたと書かれています。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と聖書に書かれていますが、その続きをよく読みますと、次のように書かれています。
そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った。
「あれはエリアを呼んでいるのだ」
真実は、エリア、エリア、ラファエロ、向かいに来なさいという意味でした。
ある人々と記述されていますから複数人いたと考えられます。
そして、イエス様は三日後に復活されます。
復活に関してはパウロが書いた手紙の中に最古の形で保存されています。
「聖書に書かれてあるように、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。
そののち、ヤコブに現れ、次にすべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生まれたようなわたしにも、現れたのである。」
弟子を含めて、五百人が目撃しており、更に生き証人がいるということですので、復活は事実であると認識していいと思います。
復活に関してはエジプトでも、ミイラというかたちかもしれませんが、復活信仰がありました。
王様を包帯でくるみ保存しておくことで、やがて魂が戻ってきて再生するという復活信仰でしょうか。
エジプトには、アトランティスから引き継がれた、「何か」があるような気がしますので、おそらく、その「その何か」の名残かもしれません。
更に、ラザロの復活です。
イエス様はなかに向かって叫びます。
「ラザロよ、でてきなさい」
大勢の人々の前に、手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、ラザロが起きてきたので、みんなビックリします。
この事件は、大勢の目撃者によって拡がっていきます。
多くの人は自分の目で真偽を確かめるために、ベタニア村に生き返ったラザロを見物に集まってきます。
この記述からして、ラザロの復活も真実であると思って間違いありません。
更にプラトンの「国家」にはエルの物語が書かれています。
エルは戦争で最期をとげます。十日の後、数々の死体が埋葬のため収容されたとき、他の屍体はすでに腐敗していましたが、エルの屍体だけが腐らずにありました。
死んでから十二日目、まさに火葬される寸前に、エルは生き返ります。
更に生き返っただけではなく、死後、「お前は死後のことは人間たちに伝えなければならない」という使命を霊人に告げられます。
この時代すでに、死んでから十二日後にエルは復活しています。
ですから、イエス様がたったの三日後に復活したことは、歴史の事実として認識してよいと思います。
復活を事実として受け止めるとして、復活の意味を考えてみます。
聖書には、転生輪廻の記述が意図的に削除されたといわれています。
時の権力者が、自分の立場を堅持するために、転生輪廻の思想が邪魔であったと言われています。
ですから、復活は霊的意味として考えた場合、人間の魂の不死性、永続性を意味していると思えます。
しかし、目撃証言から、イエス様の復活はある程度の肉体的復活であったかもしれません。
奇跡は信じる力に比例して起きる現象と定義しますと、復活現象はイエス様を信じる人々の力が、一部働いていたのかもしれません。
あるいは、イエス様の復活は、愛というものは死滅することはなく、宇宙の普遍法則であるという霊的意味があるのかもしれません。
愛の普遍法則が「復活」として具現化したのかもしれません。
ある歴史家は、もし、イエスキリストの遺体が発見されたら、キリスト教は根底から崩れると述べています。
しかし、それは唯物論を根底にした間違った考えであると言えます。
復活は、肉体が永遠に継続するという意味に解してはいけないと考えています。
このような人は、人間の死という意味を理解していないと私は判断します。
現代でも臨死体験が報告されていますので、復活はあり得る現象です。
それは、肉体が永遠不滅であるという意味ではなく、その肉体に宿る魂が永遠不滅なのであるという意味です。
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悲しい事に、私は聖書(しかもその一部)しか読んでおらず、
イエス様が三日後に復活された事までは知っているのですが、
「その後」の話は全く知らないのですね。
ガキの頃の話でもありますし、不勉強な部分でもありました。
なるほど。イエス様が復活された後、
多くの人も生き返り、その人たちやイエス様の弟子たちが、
多くの人へ教えを広めていった訳ですね。
復活された後の話を誰も行っておらず、引っかかっていましたが、
これで一つ、勉強になりました。ありがとうございます。
イエス様が復活し多くの人も生き返ったというよりは、復活したイエス様を多くの人が目撃しているということですね。
聖書のコリント人への第一の手紙第15章4〜8に書かれています。
その後、弟子が伝道を開始します。
しかし、多くの弟子およびキリスト教者は殉教していきます。
ペテロは逆さ十字にかけられ、パウロは斬首されています。
ヨーロッパの歴史はキリスト教の歴史と言ってもいいかもしれません。
とても素晴らしい記事です。
子供の頃見た映画を思い出しました。
イエス様の処刑シーンに、訳も分からずにただただ涙を流した記憶があります。その時の悲しさと神への思いがよみがえり、ピュアだった自分を懐かしく思います。
今世こそ、その激しく犠牲的カルマが消えますように。
キリスト教のすばらしさを多少なりともお伝えできてうれしいです。
相手を思いやる気持ちと自分に対しての許す気持ち、両方大切なことかもしれません。
救世主が処刑されるということがないように、私たちも頑張らなければなりません。