大悟の法には、神秀と慧能の修行について書かれていたと思います。
五祖弘忍が『依鉢を譲る』ということで悟りの試験をしました。
自分自身の悟りの内容を言葉に書いて出してみなさいということで、内容が五祖弘忍の考えと近ければ次の後継者になるということです。
神秀の書いた偈の内容を要約すると、「身体は大事な菩提樹だし、心は大事な鏡なのだ。だから、心境を磨かなければならない。体も心も、大切に手入れをして、塵や垢や埃がつかないようにしなければならない」大悟の法講義・自力と他力参照
オーソドックスな詩で、地道な努力を要求している内容であると思います。
一方の慧能の偈の内容を要約すると以下の通りです。
「菩提の樹などない、鏡もない、本来は無一物。どこに塵や埃をつけるのだ」という内容です。
これは仏教の『空』の思想に関係していると思えます。
神秀と慧能を比較すると、神秀の方が忍耐と努力を要求する修行内容に対して、慧能は地道な努力、修行を積み重ねるというよりは、一躍跳入如来地的な感じを受けます。
要するに、仏性があるから即成仏するというような短絡的な考え方です。
人間にとってどちらが正しい修行内容であり、魂の進化にとって大事なことであるかと考えてみますと、自分は神秀の修行論こそが王道であると思います。
神秀の修行論こそ、仏陀の修行論に近いと自分は考えています。
空の思想は縁起とも関係してくるので、仏教にとって大事な教えであることは間違いありません。
ナガールジュナの中論には、空の説明の一つとして次のように書かれています。
「淨に依存しないで不浄は存在しない。それ(不浄)に縁って淨をわれらは説く。ゆえに淨は不可得である。不浄に依存しないで淨は存在しない。それ(淨)によって不浄をわれらは説く。ゆえに不浄は存在しない。」
要約しますと、淨と不浄とがそれぞれ自身の本質(自性)を持つならば、淨は不浄をはなれても存在し、また不浄は淨とは独立に不浄として存在するはずです。
しかし、淨も不浄もともに、自然的存在の「ありかた」であるから、独立に存在することは不可能であります。(相互依存している関係)
存在が本質的な普遍性を持つのであれば、他に依存しないで自立的であるということです。
神秀の偈の内容は、仏陀の修業論とおなじものであり、仏陀も地道な努力を要求していたはずです。
しかし、人間はどうしても肉体の欲望に引きずられますから、この世の存在のはかなさを教え、霊的世界こそ実在の世界であり、人間の本質は霊的存在であるということを教えるために、この世を否定する空の思想が大事であったのでしょう。
空の思想が大事だからといってそれを逆手にとり、人を驚かすような突拍子もない内容を書いて人をひきつけたり、意味不明な内容を書いて人を煙にまいたり、自己を正当化することは間違いであるということです。
人に対して話をし、文章を書くのであれば、初めも良く、中程も良く、終りも良い内容であれば素晴らしいということです。
しかし仏典には以下のようにも書かれています。
「多く説くからとて、それゆえにかれが賢者なのではない。心おだやかに、怨むことなく、恐れることがない人、かれこそ<賢者>と呼ばれる」
口先だけではなく、心の状態や行為も大切であるということでしょう。
努力精進し修行を続ける先の目的地とは何なのでしょうか。
「上求菩提・下化衆生」という言葉がありますが、修行を通して目指すべき方向性とは、自己の向上、悟りを積み重ねるという上求菩提と、多くの人を救っていこうとする慈悲の心、下化衆生の精神であると考えます。
ですから、自分が苦労しないで、あるいは地道な修行をしないで、相手の気持ちを理解することはできないと思います。
相手の気持ちがわからなければ、優しい思い、愛の気持ちはでてこないと自分は考えます。
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