悪霊・悪魔と言われる存在も、光の天使の真似をすることが可能であるといわれています。
闇の存在であるからこそ、光の天使のふりをして人々を騙そうとするのでしょう。
通常、私たちの判断は、外見によってある程度の印象を受けます。
その印象が正しいものなのか、間違ったものなのかは、時間の流れの中で明らかになるものです。
初めの印象とは別に、なぜ、時間の経過とともに相手の人柄や考え等がわかってくるのでしょうか。
それは、表面的に善人を装っても、その心から発する波動までは、ごまかすことも隠すこともできないからです。
霊界においては、思いによって容姿を自由自在に変化させることができるといわれています。
心に念じることによって、その念波と言いますか周波数が、テレビの画像を映し出すがごとく、自分を違った状態に映し出すことができるのです。
ですから、表面的な部分だけで判断すると、大抵は間違いをおかしてしまいがちです。
実際、愛の心を持ち正義の実現を強く願っている人から発するオーラあるいは、波動は見せかけの人とは全く違います。
今は絶版になってしまったのかもしれませんが、『信仰と情熱』という真理の書物がありました。
プロの伝道者向けに書かれている内容であると思います。
その中に書かれている内容の一部分を紹介します。
「もし、自分自身の心の中に持っている光が、イミテーションの光であるならば、まがいものの光であるならば、みなさまがたが指導して、他の人々の心のなかから導ける光もまた、摸造真珠の光であり、摸造ダイヤの光でしかありません。
中略
しかし、一見同じように見えても、私たちは見た瞬間にそれが本物ではないことがわかります。
なぜか。
それは、イミテーションのダイヤモンドが光すぎるからです。ダイヤモンドに似すぎているのです。
あまりにも、直接的な光が出すぎているのです。
あまりにも、キラキラしすぎているのです。
なぜ、それほどキラキラしているのか。
それがイミテーションであるところの理由なのです。
本物というのは、深いところから光が出ていて、その深いところの光は、決して他の人々を挑発し、他の人々を誘惑し、そして迷いの中に魅き込むような、そのような光でありません。
本物は、深いところからじわじわと味わいのある光が出ていて、そしてその光は、しばらく眺めていると、自然に魅き込んでいくような魅力を必ずや持っているはずです。
外に主張していく光ではなく、内に魅き込んでいくようなそんな光を、本物は有しています。
この違いを、はっきりと知らねばなりません。」
つまり、修行が十分に完成されているわけではなく、学びも中途半端であるのに、外見だけ悟ったふりをするなということです。
もちろん、上記の文章にはそれ以上の深い意味合いがありますが、外見だけよく見せようとしてもだめだということです。
特に救国だの愛国だのと並べている人物は、人間としての基本ができているとは思えません。
霊的世界からみた私たちの心の中は、思っていること、考えていることが、すべてわかってしまう世界です。
そのぐらいのことは知識として知っているという前提で考えてみますと、それでも救国だの愛国だのというある人物は、嘘、偽り、捏造、印象操作、正当な批判ではなくただの悪口をしても、まったく自分が悪いとは思わないという、超自我の塊・新人類です。
あまり長時間書いていると、私の方も霊的に影響されてしまうかもしれませんので、ここまでにします。
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