貧しい人々、苦しんでいる人たちを救うという強い使命を自覚されている方であると思えます。
ですから、マザーテレサ御自身は世界に一人でも苦しんでいる人がいるうちは、自分がその人たちより幸せになっている場合ではないという気持ちを持っておられるように思います。
御自身が贅沢をすることで、貧しい人達の気持ちがわからなくなると考えているかもしれません。
宗教的な魂の特徴なのだと思います。
主・エルカンターレは自助努力によって繁栄することは素晴らしいことであると教えられています。
そして、その繁栄発展が個人にとどまるのではなく、多くの人達にまで広がっていくことを望まれていると思います。
しかし、キリスト教の教えでは、金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しいと説かれています。
・・・ということは、金持ちになると完全に天国の門が開かれないという意味にも取れます。
実際、マザーテレサ御自身は、「イエスのおっしゃったことが正しくて、その言葉が普遍的で例外のないものであるならば、ここ数百年のことに関して勉強してきた現実が私には理解できかねます。
これが神の祝福なのでしょうか」
と述べられています。
この言葉は、マザーテレサのみならず、信仰心ある熱心なキリスト教信者であれば、同じように悩まれるであろう、大問題であると言えます。
イエス様のご本心は、おそらく、金持ちが天国に入ることができないのではなく、金に執着する心によって、天国の門が閉ざされる、という意味であろうと推測できます。
実際、「愛」という問題が一番難しいと思います。
幸福の科学の教えには、愛の発展段階説があります。
本能の愛は除外して、「愛する愛」「生かす愛」「許す愛」「存在の愛」と段階があり、その愛の段階が次元と対応関係にあると教えられています。
基本的には、見返りを求めない与える愛、与えきりの愛の実践を要求されています。
現実問題として、愛する愛ですらかなり難しい問題であると言えます。
貧しくて、その日の糧にも困る状況で、人に愛を与えなさいと言われても、それどころではないという気持ちが実際のところでしょう。
ですから、愛には智が必要であるといわれています。
その人の置かれている状況、現在の心境から判断して、適切なアドバイスをすることが生かす愛にもつながることでしょう。
しかし、キリスト教的な愛は、今、目の前に困っている人がいるならば、すぐに手をさしのべることが愛です、と言われてしまいそうな感じを受けます。
ただ、マザーテレサ御自身、最後は「神の知恵を学ばなければならない」これは非常に進んだ考え方と言われていました。
しかし、常に貧しい人達のことを忘れてはいけないとも言われています。
あまりエリート集団になってもいけないと思いますが、困っている人たちを、心の底から救いたいという気持ちが、自然にわいてくるマザーテレサは、素晴らしいキリスト教信者であると思います。
知識も大事ですが、無私(無我)の心で神に祈る、祈ることで神から降り注ぐ光を周囲に広げていくことも、愛というものであると思えました。
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