宗教を通して自分自身が努力精進し、神仏に近づこうとしている人は正しく宗教を学んでいる人だと思います。
特に霊的世界に参入する場合、自分自身の努力精進する姿勢、謙虚さ、忍耐力、そして正確な真理知識が必要であると思います。
しかし、単に宗教が好きな人、教学は軽視し、霊的現象のみが真実で善悪の価値基準であると考える人、このようなタイプの人間は、悪霊の惑わしを受けてありがたがる人達です。
おかしくなっていくタイプの人は、霊的現象のみをありがたがり、一般的に教学を軽視しています。
それは、その人が言っている言葉や文章で明らかにわかります。
確かに20世紀は、唯物論的考え方が主流となり、霊的現象つまり万人には確認の方法がない、客観的に論証できないという理由で、学問の対象から外されてしまいました。
デカルト御自身は、霊的体験を積まれたといわれていますが、思想的に精神と肉体を二分法的に分けてしまいました。
霊的(精神的)な部分は一般的にわからないので、わかるところだけを理解しようとしたということです。
また、カントも霊的なところは解らないので、自分が理解できる範囲に限定して哲学を構築したのでしょう。
ご本人はもちろん霊的世界や神仏の存在を否定しているはずもございませんが、後世の人達は、残された思想だけを学ぼうとしたということです。
それが結果的に唯物論につながってしまいました。
仏教にしても、神秘的な部分は理解が及ばず、わかる範囲に絞り込んだため、理解の仕方によっては唯物論と取られてしまい、間違った部分も教えとして時代を流れてきました。
このような自分に甘く、真理を自己の都合によって強引に曲げ解釈しようとする人は、むしろ霊的な現象が起きない方が、その人自身のためであるといえます。
信仰心の大切さをいろんな方が訴えていますが、初めて信仰の道に足を踏み入れるときに大切なものは何か、それはトマス・アクィナスの御言葉をお借りすれば、その教えが本当に神仏からきているものなのかどうかを判断する理性の大切さだと思います。
霊的現象があるかどうかではなく、基本教義が正しいかどうかを判断してから信仰の道に入りなさいということでしょう。
霊的なものにつられてくるような人は、危険性が高いと自分は経験上そのように思います。
更に危険性の高い人とはどのような人かと言いますと、客観的にみてあるいは法的にみても、明らかに間違った行為をしているにもかかわらず、人からそれとなしに注意あるいは警告されると、注意した人を悪魔呼ばわりする人です。
私から見れば、どのような精神構造をしているのだろうと悩んでしまいますが、自分の都合が悪いことを指摘されると、指摘した相手を悪魔呼ばわりするなど、話にならないとしか言えません。
肉体自体は、動物的属性あるいは本能が備わっていますし、死ねば鉱物と同じように崩壊してしまうでしょう。
視覚的な部分だけをとるならば、人間の尊さあるいは尊厳を導き出すことはできないでしょう。
大切なのは人間の肉体の内に宿っている魂、あるいは観念論哲学的には絶対精神、宗教的には霊的自己と言われる部分です。
動物と人間を分けているのは、精神です。
人間は霊的存在であるといわれていますから、霊的現象が起きたとしても特に不思議なことではなく、慢心することでもないと思います。
ですから霊的現象が身に及んでも自分の経験の一部として考えながら、努力し続ける姿勢、忍耐力が、邪悪な霊に惑わされないために必要な自助努力であると考えます。


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