「慈悲は、あなたを、この世の敵、地球上の敵から護ります。
さらには、宇宙の敵からも護ります。
悪霊、悪魔、そして他惑星から来た邪悪なる宇宙人からも護るのです。
慈悲のみが、彼らを撃退できるのです。
彼らは、慈悲の心に打ち勝つことはできません。
慈悲とは、この地球の力なのです。」救世の法
慈悲とは、それほどの力があるということです。宗教的な普遍的愛、ヘルメスやイエス・キリスト的な愛の思想と仏教的な悟り、あるいは高度な哲学的な悟りが融合すると、それが慈悲の心となって結実するのでしょう。
私のブログの副タイトルに「時間は慈悲である」と書かれていますが、これは適当に付けたわけではなく、自分なりに考えて付けたわけです。
自分なりの考えですからこの考えが必ずしも正しいとは言えませんが、三次元的に時間と表現している言葉は、宗教的あるいは、仏の立場でいえば慈悲とよばれているものに対応しているのではないかと考えています。
ニュートンはあらゆる観測者にとって一様に流れる時間(絶対時間)を仮定して、力学の体系を作り上げました。また、時間は一方向にしか流れないことは、エントロピーの増大の法則と結びつけて説明する場合もあります。さらに相対性理論によりますと相対運動する座標系の時間は進み方が遅くなり(速度が光速に近づくほど時間の進み方が遅そくなる)、また、強い重力場でも、時間の進み方が遅そくなる(一般相対性理論)と説明されていたと思います。
キリスト教父アウグスティヌスは、過去、現在、未来を意識と結び付けて過去は記憶であり、現在は直観であり、未来とは期待であると述べられていたと思います。過去、現在、未来とは心の中に存在し、心以外にそれを認めないのである。といわれていましたが、心とは人間の本質であり霊界と深い関係にあります。霊界といわれる4次元以降の世界は、過去・現在・未来が同一空間を共有していると教わっていますが、4次元以降の法則を心と結びつけて説明されていると自分は理解しています。
カントは時間と空間を、他の条件や経験、考え方などに左右されることがないという意味で、純粋直観とよんでいたと思います。人間の直感は、必然的に時間・空間の中で働かざるを得ません。それゆえに時間と空間は人間にとって根本的な直観の形式である。といった説明であると自分は理解しています。
科学者や哲学者、思想家達が時間について説明されていますが、慈悲との関係はどうなのかと考えてみますと、慈悲はすべての存在をあらしめている力であると自分は考えています。存在は仏の念によって創られたといわれていますが、その存在をあらしめる念がなくなると、すべての存在は消滅するということでしょう。
「時こそ霊的なできごとを現す、またそれを可能とするエネルギーの一形態である」と述べている人もいます。
私達は現象の変化を通して時間の経過を知ることができます。現象が変化するということは、そこにエネルギーの作用がなければなりません。エネルギーが作用したということは、その分だけエネルギーが使われたということであり、消費したということになります。時間とは自然界におけるエネルギーの消費につながっています。
時は現象の変化であり、現象はエネルギーの消費を意味するものであるならば、自然界の現象の変化が激しいければエネルギーの消費も大きく、時の進み方も速いはずです。時の経過が速いということは短い時間に大量のエネルギーを消費したということにつながると思います。
例えばバケツに10リットルの水(エネルギー)が入っていると考えます。1秒間に全部流せば、10リットル分のエネルギーが発生(現象の変化が激しい)し、時間は1秒間です。しかし、1秒間に1リットルずつ流せば、1秒間に1リットル分のエネルギーが発生(現象の変化がゆるやか)し、時間は10秒間に伸びます。
この場合のエネルギーとは、高次元から流れているエネルギーをさしています。9次元→8次元→7次元→6次元というかたちで高次元から下次元に向かって流れている愛の大河であります。
もし、仏が高次元から流れるエネルギーの供給を断ち切ったらどうなるか。おそらく時間が止まり、存在は消えてなくなるでしょう。
ですから、私達が存在している事実こそ、仏の慈悲が働いている証拠であります。ですから時間と慈悲は同じものであり、みる視点によって呼び方が違うだけであると自分は理解しています。
ですから上記で引用しましたように、悪霊、悪魔、邪悪な宇宙人ですら、その存在が許されているということじたい、仏の掌の中にあると言えると思います。
そして、私達の心の中にある他の人にやさしくしたいという気持ちは、この存在をあらしめている仏の慈悲の現れであると自分は考えています。
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