2016年05月01日

個人の自由における倫理観と国としての責任

個人の自由における倫理観と国としての責任

全体主義は、個人としての自己責任の意識を希薄にしている感じを受けるので、更に社会主義の問題点と、その行き着く先を考えて見たいと思います。

聖徳太子の十七条憲法の第十条には次のように書かれています。
「人にはそれぞれ思うところがあり、その心は、自分のことは正しいと考える執着がある。他人が正しいと考えることは、自分は間違っていると考え、自分が正しいと考えることを他人は間違っていると考える。しかし、自分がかならずしも聖人ではなく、また他人がかならずしも、遇者なのでもない。両方とも凡夫にすぎないのである。正しいか、間違っているかという道理を、どうして定められようか。・・・・・他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ過失がなかったかどうかを反省せよ。また自分の考えが道理にあっていると思っても、多くの人々の意見を尊重して同じように行動せよ」中央バックス日本の名著参照。
誠に素晴らしい内容だと思います。しかし聖書でも思想でもそうなのですが、解釈の仕方によってまったく違った意味にとられてしまうことがあります。
例えば、「他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ過失がなかったかどうかを反省せよ」とありますが、外交問題として、先の戦争で日本は、中国を侵略したのだから、中国が日本に対して言うことに何の反論もできないという外交であれば、日本の国益を損なうことになります。
個人としては、すばらしい行為であっても、国と国の関係において、過去いろんな過失があったとしても、それが理由で何も言えないようでは問題があります。

また、「多くの人々の意見を尊重して同じように行動せよ」という内容を、自分の考えや意見が何もなく、ただ全体の流れに逆らうことなく流されているだけならば、そこに自己責任の考えは出てきません。

ハイエクは、倫理的分野における積極的な基準である道徳などや、道徳的原則を維持しようとする真剣さでは、集産主義(社会主義)運動はマイナス影響を及ぼしたと言われています。
そのようになってしまったのは、道徳が個人的行動にかかわることだということを忘れてしまい、社会や制度に責任を転換しているうちに、個人的責任をいう概念が希薄になってきていることを指摘しています。

また、「われわれは自分のふところを痛めることなしに博愛的であろうとすることを許されていないし、自らの選択の余地がないところで博愛的に振る舞ったからといって、どんな価値があるものではない」とハイエクは記しています。

要するに道徳とは個人的なものであり、自らの痛みを伴うものだということです。
ですから「貧しい人に予算をつけなさい」といっている人が税金を納めていなかったら博愛的ではない。自分の懐からお金を出すのが博愛的であるということです。
このあたりまえのことが現在、狂ってきていると渡部昇一氏も述べています。
自分の腹の痛まないところで福祉予算を多くするといって、いい気分になっている人が多すぎると指摘しています。
例えば、気が狂れた人間が、誰かを刺したとします。『頭が正常ではないからマスメディアに名前を出していけないし、監獄に入れてもいけない』。そういうことを言うと立派な人だと思われる。しかし、その人自身が刺されてそれをいうのなら偉いと思うけれど、自分が刺されていないで、そのようにいうのは偽善です。

これは、本当に天国と地獄がひっくり返った感じを受けて、憤りを感じますが、加害者が法的に守られて、被害者が泣き寝入りするとは、いったい正義はあるのかと言いたいです
しかも、それが法的に正当化されるというのであれば、社会主義は邪教そのものであると言えると思います。

倫理は個人において成り立ち、その為には個人に自由を与えなければならないということだと思います。

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posted by ガンちゃん at 20:37 | Comment(0) | 政治・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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