現在の自分が、霊的に進化していくための道のりを考えてみます。
まず、人間は真理における正しい概念を形成する必要があると考えられます。
ある事物に対しての概念を得ることで、その事物に対しての理解が可能になると思います。
人間は、ある事物によって表象を抱いています。
その対象を取り去られたとき、人間は表象のみを所有しているといえます。
対象がなくなっても、表象は記憶の中に定着しています。
しかし、単に表象のみにとどまっていたのでは、対象を認識することができません。
概念の形成に至らなければなりません。
概念と表象の違いを明確にしておく必要があります。
例えば、私たちが視覚を通して、円を見たとしましょう。
私たちは、円の表象を記憶に留めることができます。
しかし、この段階ではまだ円の概念を得ることができません。
円の概念を得るためには、「円は円周上のすべての点が、中心点から等距離にある図形」という認識を獲得する必要があります。
概念を得ることで、私たちは初めて、その事物の理解を得ることができるようになります。
大きい円、小さい円、赤い円、青い円等、多くの円が存在しますが、「円」という概念は一つしかありません。
概念の総体の中から特定の概念を選び出し、対象と結びつけることで事物の認識が可能になるといえます。
今の例で言いますと、円という概念によって様々な円を包括的に理解することができます。
真理知識についても同じことが言えます。
基本的真理知識の概念を形成する過程で、間違った理解によって真実とは違う概念が形成されたらどうなるでしょうか。
それ以降の真理知識をいくら学んでも、個人において正しく真理を理解することが、きわめて困難になると考えられます。
例えば、地上と霊界という次元の壁を越えて、波長同通の法則があります。
仏光物理学の第三テーゼには、仏の光には周波性があり、高周波は高周波と通じ、低周波は低周波と通じるといわれています。黄金の法 参照
地上人であっても、高級霊と同様の意識をもたなければ、高級霊とは感応できません。
反対に、低級霊と感応する人は、その意識も低級霊と同調しているということです。
これが、真理における「波長同通の法則」の正しい概念です。
私たちは、真理の概念の総体の中から波長同通の法則という概念を特定して、その人なりの発言を判断します。
もし、自分は八百万の神々の一人であるとか、私は如来であるという発言をした人がいたとします。
私たちは、その人の発言から認識力や真理の理解度を判定し、如来と言われた高級霊の思想と比較し検討します。
そして、これはとても如来の発言ではないと判断し、波長同通の法則を根拠に、その人物の自称如来発言を、まったくの妄想であると判断することができます。
次に私たちに必要なこととは何でしょうか。
この地上において、普遍的なものと過ぎ行くものとを区別する必要があると思います。
ギリシャのプラトンにしても、仏教的真理にしても、地上的なもの、要するに感覚的な対象はすべて、夢・幻、あるいは虚妄であるといわれてきました。
感覚的対象は過ぎ行くものであり、実在ではありません。
注・実在ではないといっても、それを否定すれば真理が得られるわけでもありません。
先ほどの概念と関係があると思いますが、たとえ霊視ができたとしても、それで自分は特別な人間であると慢心し、悟ったと思ってしまうととても危険であると考えます。
霊を見たということは、哲学の書物を見たのと同じであって、それをどのように理解し判断するかは別問題であるということです。
高次元の領域において、教師あるいは神であるためには、高次元に対応した感覚が開かれている必要があると思えますが、それだけでは、不十分であるということです。
私たちが存在している、三次元的地上世界において、健全な感覚を持っているというだけでは、学者や先生になれないように、霊的視覚を持っているというだけでは、霊界の指導霊になることはできません。
実際に、現実世界は、低次元の物質的世界も高次の霊的世界も同一の根本的存在性の二つの側面にすぎません。
ですから、低次元の認識において、無学あるいは間違った認識をしているものは、高次元の事柄においても無学であるにとどまります。
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というのは、間違いで、それを問うなら
「人間」は、何故「神の姿」をしているかというべきだ。
ここに、この問をなげかけた者の邪悪な意図が読み取れる。
それは、「神仏」と「人間」の分断だ。
聖書によれば、
「神」は、「人間」を「神の似姿」として創られたのだから、
そもそも、「人間」こそ「神」の姿として創られた。
として、考えるべき。
そう考えると、「人間」は、「神仏」の子であるから、
親の姿をまねて人間の姿として創られた。
ならば、「神仏」が、人間の姿をとるのは、
「人間」という神仏の子に、「親」としてわかるように、
人間の姿をとるのではないか。
そして、それは、人間への愛の現れではないか。
また、その「神」の姿をみて、恐れたり、本心を隠そうとするのは、
それこそ、悪魔であり、悪魔に心をうった者である。
また、悪魔であれば、
相手をだますために、相手の本心を確かめるために、
いろんな姿に化けるのであろう。
従って、「人間の親」である神仏が、「人間の本心」を探るために、
「人間の姿」をとるということなどありえない。
そもそも、神近き認識の高い高級霊であるならば、
その人間をみただけで、あるいは、名前をみただけで、
相手の本心を見抜く。
虚偽やごまかしはいっさい通用しない。
従って、人間の本心をさぐるために、「人間の姿」をする「神と名乗る存在」というのは、それは、「神」を詐称する「悪魔」といえる。
私も同感です。
本当は私自身、神に至る認識という、だいそれた記事を書く気持ちはなかったのですが、ピッポ氏の神認識が英さんがおっしゃる通り、まったく正反対の裏仙人的に認識なので、遠回しに記事を書いたのですが、おそらくピッポ氏本人にはわからないでしょう。
ピッポ氏は、実際に真理と言いますか、神については何もわかっていないと思われます。
少なくとも、ピッポ氏の記事を読む限り、裏側の仙人的認識に思えて仕方ありません。
霊能力が正しさの基準ということを言っていたと思うので、GLA系統の裏仙人だと自分は思っています。
それはあなたのエゴつまり自我がそう思ってるだけで、
本格的な瞑想をして、空に入ると、思考が出てきただけで、
自我の世界にもどってきちゃうわけよ。笑
つまり、悟りの世界に概念も理解しょうとすることも必要ないわけ。
無思考のとき、それが現れる。
あなたの頭の中の自我でつくったものは一切悟りとは関係ないことが
たぶん死んだあとになっても意味がわからないだろう。
あなたは悟りとは無縁のことを一生懸命に考えてなんとかしょうとしてるわけよ。
あなたみたいな人の特徴は、基本的に信念体系からによる善悪の
マインドコントロールが自我の奥の潜在意識にあり、
その善悪の基準をベースに崇高な文章を思考で作れれば、
悟りが高いと思い込んで、優越感に慕っている。だけ。
悟りにいたれば、善悪も人と比較する分離感もなくなり、
すべては一つを体験する。
たぶん、この書き込みもあなたは頭で理解しょうとするだろう。笑
「悟りにいたれば、善悪も人とし比較する分離観がなくなり、
すべては一つを体験する。
って、書いてるが、
あなたの書いてることが、分離してるのに気が付いてないし、
もし、あなたが、仮にその「分離観でなくすべては一つを体験する」(笑)という悟りを得ていたならば、あなたは、あなたの言う悟りにも
達してないことになるが。
つまり、逆をいえば、あなたこそ「悟りにいたれば、善悪も人と比較する分離観がなくなる」というマインドコントロール自我エゴで、
他人をみているとしか見えんがね。
それに、悟りに概念も関係なく無思考になったら現れるというのは、
無思考つまり、思考をやめたら無にしたら悟りが現れるなんて、
さすが元会員ですね。(笑)
結局、あなたの言いたいことは、
それは、「悟りを求めるのをやめたら悟れた」といってるにしかすぎないし、はっきり、宗教的に言えば詐欺だね。
元会員が、その程度じゃあ元信者の名がすたるんでは。(笑)
あなた、ほんとに、元信者か?
仏教を学んでる者なら誰もが知ってる、そのへんの仏教本にも書かれてる悟りの一断面をさも「これだけが悟り」とでも言わんばかりに強調してる偏狭さといい、どちらの方が
>善悪の基準をベースに崇高な文章を思考で作れれば、
悟りが高いと思い込んで、優越感に慕っている。だけ。
なのか、明らかですね。
まったく悟れていない自我そのものであるマウンティング行為お疲れ様です。
元信者さんのように、自分の考えのみが正しいと錯覚しますと、信者であり続けることが難しいのかもしれません。
悟後の修行と言われるように、悟りは遥か先につながっています。
謙虚さを失いたくないものですね(笑)