人間は、暗闇の音もしない洞窟の中に閉じ込められている限り、素晴らしい素質が備わっていたとしても、その素質や能力を開花することはできません。
教育とは、感覚的な体験、経験を通して知性を発展させ、地上での現実の関係を深めることで、自己実現を果たせるようにすることだと思います。
しかし、人間の魂が地上の現実だけに向かって開かれているだけで、物質的感覚的世界にのみ留まり続けるのであれば、超感覚的世界である霊界に参入することはできないでしょう。
地上的な高い教育を受けた人であればあるほど、霊的世界に対して思考を閉ざしてしまいます。
感覚では確認できず検証できない霊的世界に対して、ある意味で潜在的な恐怖心を抱いているのかもしれません。
霊界という、地上的ものさしでは計測できない世界に対して、唯物論という麻薬によって無感覚になりたいという欲求を無意識に持っているのかもしれません。
霊的事象に関して、幻想や妄想と現実の区別をすることは、ある意味で困難なことであると思います。
超感覚的世界と交流したと思っている人が、実は自分の記憶像に見入っているだけかもしれない場合が多いのではないでしょうか
霊視能力が備わっている人が霊存在と接触したとします。
しかし、霊体験をしたということが、悟りとはイコールではないということです。
智慧といいますか知恵が低いと、霊的インスピレーションを受けている自分自身は、他の人とは違うという意味で、悟っていると思い込んでいる人もいます。
虚妄と現実の区別がつかず、どのような霊存在からのインスピレーションかも自分で判断できないにも関わらず、神からの通信であると誤認してしまいます。
これなどは、慢心というよりも仏教でいうところの癡(愚かさ)の表れであると考えられます。
確かに高度な認識力や仏教的悟りがあるとは思えない人であっても、霊的現象あるいは霊的存在を見ることはできると思います。
しかし、見ることはできても真実を見出すことはできないのではないでしょうか。
それは解読不可能な文字を前にしたのと同じ意味です。
その文字を読める人、読めない人、読めても理解できる人理解できない人、人それぞれであります。
文字を読める人も読めない人も見ることはできても、解読できる人でなければ、その意味を理解することはできません。
ですから昔から、霊的世界に参入する真実の神の使徒は、厳しい修行を積み霊的認識力を深め、自分自身の内面を統御できる自己確立が、大事であるといわれていたのだと考えます。
そして、正常な霊的能力の開発にとって大切なことは、愛であるといいます。
真に霊界に精通すればするほど、相手に対しての同情心や愛の大切さを実感しなければいけなと言われています。
魂が霊的世界に参入するための前提条件が、真実の愛であり、人に対しての好意や同情心の育成であるといわれています。
ですから、自分自身の愚かさに気が付かず、霊的能力が悟りであると考え違いをし、あげくのはてに自分は神だと勘違いしている人間にとって、神などほど遠いところにあるに違いありません。
愚かさゆえに神気分によっている人間など問題外であると言えます。
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