古代のギリシャの民主主義を理想としながらも、現代においては、理想とするギリシャ的民主主義を実現しようとする行為は、深い池に落ちていくことになると指摘しています。
民主主義は多くの人の意見を反映させ物事を決めていく、一人の独裁者による完全支配ではなく、多数決によって重要な問題など話し合いながら解決していくシステムです。
その民主主義も人口が増えすぎることで崩壊していきます。多くの人が神を信じない唯物論的なものの考え方に支配され、物事の善悪にたしての価値判断ができず、理性に基づいた考え方ができず、知識もなく、感覚的な空気によって物事を判断する人達が多くなった時、民主主義は崩壊していく以外にないと考えることができます。
しかも日本は民主主義と言いながら、その実態は社会主義です。ハンナ・アーレントからみたら日本は大きな政府なのでしょう。消費税増税、所得税、社会福祉といわれる名前を変えた税、経済を発展させる方向での政策を考えるより先に、国民から税金を取ることを最優先しています。
大きな政府は、自由が抑圧される全体主義につながっていきますので、国民は幸せを感じることがないでしょう。
政治学の原点では、民主主義の担い手として「考えることができる人」が自由という意味を解釈して、正しい結論に人々を導いていくことが大切であるということを述べられていたと思います。
仏教的に翻訳すれば、「上求菩提・下化衆生」という考えに相当するのでしょう。
上求菩提とは、個人として悟りを求める、あるいは深める考えだと思いますが、アーレント的には「観照的生活」に相当する考え方で、永遠の真理を探究する哲学者としての生活」と定義されています。
宗教的な側面、心の調律に関する観照的生活は人間の精神を深めるために必要な時間で、1日の内の数分でもよいから神仏に心を向ける必要があるといわれています。
下化衆生、一般の人々を正しい方向に導く、あるいは困っている人達に救いの手をさしのべるということですが、アーレント的には「活動的生活」に対応する考えで、頭だけで理論を構築するだけでは世界は変わらないので、実際の活動面を重視した方向です。
物質的な面で不幸な人達や貧しい人たちを救う活動がなされているのか。
私達に不幸や貧しい人たちを救おうとする気持ちがあるのなら、キリスト教徒の欧米人にも受け入れてもらえるはずですと指摘しています。
考えることができる人と書きましたが、考えるとはいろんな角度から多角的に物事を観察しようとすることです。
日本人の見方やものの考え方と中国やアメリカ、ヨーロッパでは違うでしょう。背負っている歴史も宗教の違いもありますので、自分の見方考え方が正しいとは限りません。
そのような多角的に見ることができる人達が、自由の実現のための行動を起こす時、現時点での社会的常識とは合わない部分がでてくるでしょう。
第三者からみれば、権力を手に入れて一種の独裁政治、全体主義、専制政治を打ち立てようとする活動に見えることがあります。
トインビーだったかだれか記憶が定かではありませんが、歴史は「挑戦と応戦」の繰り返しによって発展していきます。
古い文明は新しい文明の興隆によって挑戦をうけます。今まで続いた文明は応戦しますが、挑戦を打ち砕いたときのみ生き残りますが、破れたときは滅びていくことになります。
ヘーゲルが述べていたと思いますが、歴史は一つの文明が滅びることで新しい文明が誕生します。
古い文明が続くということは停滞につながると思いますが、滅びることで新しい文明の誕生がある。
これが歴史上の発展の原理といいますか発展の法則であると思います。
大事な観点は、そこに神の愛があるのか、神の正義があるのかという点で、もし私達に神の愛や正義がある活動であるならば、独裁主義、全体主義ではないということです。
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