現代の特徴ともいうべき物質至上主義(唯物論)のためにか、マリア信仰、あるいは女神に対しての信仰が弱まっている感じを受けます。
マリア信仰でなくても良いのですが、宗教的な神仏に対しての、純粋な信仰ということの価値が失われて、肉体を喜ばすことが人生の喜びという考え方が蔓延してきています。
しかし、真理は時代や国の違いを超えるものであり、キリスト教の信仰・マリア信仰、マリア様の謙遜や神と人々に対しての愛は、あらゆる時代の人々の模範になってきました。
やはりマリア信仰の一番特徴的なところは、その母性であると思います。男性はどちらかといえば、自分の自己実現ばかり考える傾向性があるように思いますが、女性は自分を犠牲にしても他の人の為にという気持ちを持ち合わせているのではないかと思えます。
聖ベルナルドは、次のように書かれています。
「彼女(聖母マリア)がおとめであり、謙遜な方であることは、あなたが聞いているとおりである。そこであなたが謙遜であるその方の、童貞性を見習うことができないのならば、せめておとめの謙遜にならいなさい。なぜなら童貞は称賛される徳ではあるが、謙遜はいっそう重要だからである。最初は、勧めであるが、後のほうはおきてである。」と言われています。
まず、精神性が大事であり、仏教的な無我の思想に近い考え方かもしれません。
「童貞性がなくても、あなたは救いを得ることができるが、謙遜なしには、救われることはない。神は人がたとえ、童貞性を失ったとしても、それを悲しむ謙遜な者には恵みをお与えになる。
マリアがもし謙遜でなかったら彼女の童貞性もそれほど神の御心にかなわなかったであろう。」と言われています。
聖ベルナルドは、「マリアの母性について言うならば、マリアは童貞性と謙遜を兼ね備えておられたがゆえに、全く比類のないかたであった。」と母性に関して洞察しています。
女性の大事な母性的な感情、男性でも良いのですが、相手を包み込む優しさや包容力は、ある程度の人生の艱難辛苦を乗り越える過程で、相手の気持ちを自分の苦しみを通して理解した時に、それが包容力として、その人の徳というかたちで、その人に備わるのではないかと思います。
聖ベルナルドは「悲しみが喜びをもたらし、恐れが慰め、苦しみが人々を救い、死が生かし、弱さが力を与えているのである」と言われています。
聖母マリアが聖母といわれるのは、世界中で苦しんでいる人達の心の支えになっているからだと自分は考えています。
この力は、女性特有の力で、ある意味で歴史的な勇者、または哲学者、宗教家などに匹敵する優しい光りの力であると思います。
哲学的な論理的思考は大事であると考えますが、人々の心を温かい気持ちにし、苦しんでいる心を慰めてくれることは、あまりないかもしれません。
「誘惑の嵐が吹きすさぶ時、苦しみの暗礁にぶつかる時、星を仰ぎマリアを呼びなさい。高慢、野心、しっとの波にもまれる時、星を仰ぎ、マリアを呼びなさい。短気、貪欲、あるいは肉の誘惑が心の小舟をゆさぶる時、マリアのほうに目を向けなさい。罪の重さに心を乱し、両親の醜さゆえに力を落とす時、審判の恐ろしさにふるえ、悲しみの淵、絶望の深みにのまれそうになる時、マリアに思いをはせなさい。危機に遭う時、困難を感じる時、心配事に出会う時、マリアを思い、マリアを呼びなさい。口では絶えずマリアを呼び、心では常にマリアを思いなさい。そしてマリアの取次によって神の恵みをいただくために、その生活の模範にならいなさい。」とベルナルドは言われています。
もちろん信者であれば、この「マリア」を「主エルカンターレ」と置き換えて考えても、聖ベルナルドの考えは現代にも十分に通じる考えであると思います。
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