ある偉人は、つぎのように述べています。
「自分の行動は、私の思いという種が咲かせた花であり、喜びや悲しみはその実である。」
聖書にもイエス様がその実が良いか悪いかは、その木を見ればわかるといった内容の言葉を述べていると思います。
つまり、喜びも悲しみも他人や環境のせいではないということです。
原因結果の法則、あるいは縁起の理法通りに人生は展開していきます。
神といわれる高級霊の方々は、たまたまそのようになったのではなく、地上に生まれ変わっていた時に気高い心、清らかな心を持ち続けていたことによる結果であり、逆に荒々しい性格は、卑しい思いを持ち続けた結果であると思います。
すべては自分に帰ってきています。
自分の人生を時々振り返って、軌道修正する必要があるかもしれません。
1人では難しい反省や瞑想は、精舎で研修を体験することで自分なりの悟りが深まるかもしれません。
「探すものは見出し、門をたたく者は開けてもらえる」マタイ福音書より。
原因結果の法則で知られるジェームズ・アレンは「思いのパワーは、目に見えない力であり、不滅の魂から生まれたエネルギーです。どんな目的にも道を切り拓き、どんな厚い壁も打ち砕く」と述べています。
自分で行動を起こさなければ現時点での環境や、自分の在り方は変わりません。行動を起こすには意志の力を必要とします。
思いがすべてという前提から考えると、環境は自らを映し出す鏡であるともいえます。心の中で抱き続けてきたその思いが環境となって現れてくるのかもしれません。
心に蒔かれた種はやがて芽を出し、行動という花を咲かせ、環境という実をつけます。
正しい思いは良い環境を現出し、卑しい心は悪い環境として現れるとしたら、環境を通して自分の心の在り方を反省する材料になるかもしれません。
罪を犯すのも環境のせいではないということになると思えます。心の中に密かに思い続けていた悪い思いが、ふとした拍子で飛びだしてきたのであり、罪を犯すのも自分の自己責任といえます。
つまり、内面の在り方が環境に現れるのであり、環境に自分が左右されるというのではなく、環境自体が人に動かされていると考えることができると思えます。
仏教には、無表業と言う教えがあります。実際に考えていることを行動であらわさない限り、他人にはその人の考えが分かりませんが、何回も繰り返し思い続けていることは魂の傾向性として魂に刻印されていきます。
これはイエス様が「心で思っただけで罪になる」といわれた根拠です。
未来は、心の中にまいた種をどのように、育てるかによるかもしれません。
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