2015年05月12日

この世的常識を超えて霊的価値を受け入れる

この世的常識を超えて霊的価値を受け入れる

地上的常識として考えられていること、今までの既成の観念や概念が本当に正しい価値基準を有しているのでしょうか?

現在の左翼思想による唯物論、その唯物論よる教育や自虐史観等が、一般的常識として何の疑問もなく社会の中に根付いているかにみえます。これが高度な文明を享受する人類の姿と言えるでしょうか。

人間は感性的、条件反射的に物事に反応して生きていたのでは、魂的には進歩しないと思えます。

現時点では、霊的世界に関して一部ではその存在を信じ探究している団体もいると思いますが、世界全体から見たら、唯物的人生観や唯物的世界観が蔓延していると思います。

物がすべてとする唯物論者は、決して目に見えない霊的世界を信じないでしょう。

しかし、目に見えないから信じないというその態度は、間違った姿勢であると思います。

例えばルイ・パストゥール以前、細菌やバクテリア等は存在しないと考えられていました。
ただ目に見えないという理由によって。
また、地球は平らだと考えられていた時代があり、当時の人たちはそれが常識と考えていました。
あのライト兄弟も人が空を飛べるわけがないと思い込んでいた人たちから、気がくるっていると思われていたようです。
いかに現代信じられている常識が不確実なものであり、根拠があいまいかということです。
感覚器官で確認できないものや、経験を通してわかりえないものは学問の対象外として取り扱わず、無視する態度が本当に正しいのでしょうか?

成功法則には、「潜在意識は現実と想像を区別することができない」と書かれているものもあります。
確かに思いの持続と努力を結びつければ、想像した内容は現実化してくると思います。潜在意識と言われても目に見えるわけではないので、実験で確認しようがありませんが、確かに物理的作用や力が働いていると考えられます。

霊的世界観を受け入れて、真理の知識を理解し、行動に結びつけていく人生が、人間としての正しい生き方だと受け入れて、流されない人生を送ることが大事であると思えます。

宗教家のノーマン・ヴィンセントピールは「大きな人生を望むなら、大きな夢を見なければならない」といいました。
見えない潜在意識を前提にした言葉ではあると思います。

現代社会は将来の不安や恐れがあり、かなりのストレスを感じる社会環境でありますが、恐れ不安も持続的に思い悩みすぎると、逆にそれを引き寄せてしまうと言われています。
しっかりとした信念、あるいは宗教的には信仰心をもち、土台がしっかりとした不動の人生を送ることができれば幸せかなと思えます。

このような言葉があります。「恐怖がドアをノックする。信じる心が応えると、そこには誰もいない」。なんであれ目標を達成するためには、信念が大事であり信仰心を持ち続けることが重要だと思います。

新約聖書には、「魂のない体が死んでいるのと同様、行動の伴わない信仰も死んでいる」と書かれています

自分を含めて宗教的に生きるには、霊的価値観を受け入れ、地上における経験は魂の進化につながると考えることだと思います。

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posted by ガンちゃん at 09:40 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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