宇宙の存在形式は常にバランスの法則が働いていると思えます。
陰と陽、光と影というように、すべては対をなして存在しています。
自我と無我は対立関係にあると同時に、お互いが補完関係にあるようにも思えます。
仏教の旗印と言われています三法印の一つに、諸法無我という教えがあります。
存在は原因や条件に依存しているので実態ではないと考えます。
また、恒常的なもの・形を変えないものはこの物質の世界にはなく、感覚的なものはいつか時間の流れの中で滅びゆく存在であるといわれています。
地上においては、諸行無常ゆえに、すべては変転変化していきます。地上的存在は本質的ではないので、この世は仮の存在であるという考えにいきつきます。
しかし、この世は仮の存在であるといっても、仏教の修行論、戒・定・慧を否定しているわけではありません。
現在の仏教学者は、無我説を五蘊の仮和合、「色・受・想・行・識」であると解釈しています。肉体、感受作用、表象作用、行動(意志の作用)、認識作用これらが仮に和合して人間なるものができており、死んだあとはすべてがバラバラになって雲散霧消して霊気のようななんだかわからないものに拡散していく。と考えているようです。(法華経信者もこのような考え方をしていると思われます。)
自己の完成を目指す修業論は、すべての宗教において大切な位置付けであると思います。しかし、自力に傾きますと、自分がという思いが強くなるので、自己を確立していく修行が大切であると同時に、自我を否定していく無我の教えも大切になってきます。
また、自己を完成していくための修行がない無我の教えは、空っぽの袋は立たないといわれているように、世間の荒波に流されるだけです。
自我といいますか自己確立と無我の教えは、車の両輪でお互いに関係しながら前進するものだと思えます。どちらか一方では駄目で、補完関係になっていますので同時に必要なものであります。
仏の教えは、対立矛盾する関係を統合していく弁証法的、あるいは両極端を否定した中道にあると思えます。
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