事物を観察する時、私達は、視覚を通して情報を取り入れています。
しかし、視覚を通して得た知覚内容は人それぞれです。
同じ対象に対して、違った認識の仕方をします。『事物は何も変わりがなかった。私がそれを違ったように見るだけだ』と考える哲学者もいます。
我々は対象を観察しますし、それに対していろんな解釈をします。逆に言うと解釈したようにしか世界が見えないとも言えます。
例えば、一流の物理学者がある実験を観察するのと、一般の人がその実験を観察するのと同じように理解しているだろうか?と考えると答えはイエスであり、ノーでもあります。イエスと言うのは両者とも視覚的に知覚しているからであり、ノーと言うのは両者の視覚による知覚内容、知覚の様式がきわめて、違うからであります。
その物理学者が見る知覚内容と同じような認識を持つには同じだけの知識をもつ必要があります。
人智学的には、自分のうちにある概念と視覚内容を関連付けるためには思考を通じて結び付ける必要があります。
対象を見るということに、知識が持ち込まれています。
例えば、ある人が細菌を見たと言った場合、その人は、視覚内容と同時に、細菌に関しての知識がなければ見たということになりません。
なぜなら、視覚的に細菌を観察しても、知識として細菌を知らなければ、観察した視覚内容を、細菌として理解できないと思うからです。
これは霊的世界に関しても同様であり、霊と言うものを知識として知らず、また最初から信じようとしない唯物的人間は、たとえ霊的な存在を見たとしても、知識としての基礎的な部分が欠落しているので、すべてが脳の作用、幻覚という認識になってしまいます。
つまり、霊的世界観を体験として、あるいは経験的になかったとしても基礎知識として持っていれば、世界は違って見える可能性があるということである。
思考とは、一般的に何を意味しているのでしょうか。動物にも植物にも、人間にも魂があると言われています。すると動物や植物と人間を分ける基準と言うべきものがあるのではないでしょうか。
動物や植物、人間をわけるものは、『思考内容の違いにある』と考えることができると思えます。
『動物にも備わっている魂を精神に作りかえるのは思考の働きである』とヘーゲルは言っています。
ヘーゲルの言う精神とは、非常に霊的な、神や仏につながっている神性や仏性に近い意味があると自分は理解しています。
その意味で、人間の思考、思考内容こそが人間らいし、人間の特徴を与えていると考えることができると思います。
つまり人間の本質は、思考そのものであり、考えであると言えると思います。
通常私たちの前に現れる知覚像は、対象そのものにではなく、知覚するわれわれに依存しているといえます。事物は我々の感覚器官の性質、機能に依存した形で認識されます。砂糖を甘く感じるのは舌の機能・性質により、甘いと認識しているだけで、砂糖事態の本質が甘いがどうかはわかりません。
なぜなら、舌の機能が変われば、砂糖を嘗めても同じような甘さを、感じるかどうか分からないからです。
思考こそが人間の本質だとすると、人格とは思考内容が反映された結果でもあると考えることが可能であると思います。
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