仏教には個人の修行を中心に悟りを得ようとする自力門と、計らい心を捨てて神や仏、阿弥陀仏にすがろうとすることで救いを求める、他力信仰、他力門があります。
どちらも仏教でありますが、仏陀が説かれた仏法は「上求菩提・下化衆生」、個人としての努力精進、修行を完成させると同時に、多くの人を救っていこうという方向が仏陀の本心であると思います。
自力は方向性を間違えますと、唯物論に流れていきやすく、他力は方向性を間違えますと完全な堕落につながります。
しかし、歴史的にみても他力門の方が霊的現象、霊的体験が多いような感じを受けます。
真理の知識について良くわからなくとも、純粋に阿弥陀仏を信じる(信仰)という行為が、霊界との関係を容易にしていると考えられます。
地上に肉体を持って生まれ変わってくることで、前世の記憶や天上界にいた頃の記憶がすべて消されています。
シュタイナーが言うように、前世の記憶は忘れて来ても、前世で身に付けた能力は消えることなく、今世に引きついできますが、霊界や神仏に対しては信仰する行為が大事であると考えます。
私が霊界について、あるいは、次元について考えを練っていた時期、大変参考になった本にアボットのフラットランドという書物があります。
フラットランドに住む平面住人は、縦と横には移動できますが、高さ(上下)には移動できません。そのような平面世界に三次元的存在(スクエア)が来訪してくる話であったと思います。
フラットランド人は視覚を通して、あるいはいかなる推論からも『高さ』を実感することが出来ません。
縦と横にしか空間の広がりがないフラットランド人は、『高さ』を簡単に感じ取ることが出来ません。
たとえば直線(1次元)を私たちが見たとき、厳密にいえば、幅(2次元)や高さ(3次元)も見ているはずです。長さしか持たなければ、三次元空間を占めることができず、私たちには見ることができないはずです。直線における高さの方向があまりにも低いため、通常は認識できないでいるだけです。三次元と四次元の関係も二次元と三次元の延長にあります。
私達、三次元に住む存在は、上下左右に移動できても、過去の時間と未来の時間に移動することができません。
霊界は同一空間に過去・現在・未来が共存しているということですから、私達の通常に認識では、そのような超空間がどこにあるの・・・という感じでしょう。
やはり私達は、神仏が説かれる霊界観や個人としての生き方を学ぶ以外にありません。
自分自身の認識の限界を超えて、神仏を信仰することで霊界との懸け橋ができるのでしょう。
その懸け橋を通して、使命がある人には霊的な現象が起きてくるものだと考えます。
仏陀の慈悲の心を強調した教えが、日本においては浄土宗や浄土真宗、あるいは日蓮宗という形で広がっていったと思います。
開祖である法然や親鸞は、霊的な現象を体験されているといわれています。
霊的体験をされているからこそ、信仰を通して阿弥陀仏の救いということを、教えの中心に説かれたのかもしれません。
霊的現象との関係で自力と他力を比較してみると、やはり、他力信仰のほうが霊的な現象につながりやすいように感じます。
おそらく自力門のように自分で苦労して修行を積んで道を切り開いて悟りを開くという感じですと、霊的エネルギー、霊流をストレートに受けづらいのかもしれません。
他力ですと自分自身が完全な受身で、阿弥陀仏の慈悲にすがるという形になりやすいので、霊的な現象も起こりやすいのかもしれません。
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