2015年01月31日

霊界を前提にした十二支縁起

霊界を前提にした十二支縁起

お釈迦さまが菩提樹下で悟った「因縁の理法」は惑・業・苦の三道といわれています。
惑とは、心の三毒といわれる「貪・瞋・癡」です。
貪りの心、瞋の心、愚かな心で、仏法真理を知らない無明からくる迷いの人生です。
迷いの人生を生きることで苦しみを作り、それが業としてあるいは、魂の傾向性として輪廻の主体となる意識に刻印されます。その結果、苦しみという報いが身に及んできます。

この惑・業・苦をさらに分析的に十二にわけた因縁の説明が、十二支縁起になります。

十二支縁起とは、
「無明」・「行」・「識」・「名色」・「六処」・「触」・「受」・「愛」・「取」・「有」・「生」・「老死」からなります。

「無明」とは明かりがない状態です。智慧の明かりがないという意味で、心の三毒「貪・瞋・癡」中心の迷った思い、考えです。貪りの心、瞋の心、愚かな心です。その思いにもとづく行い「行」があります。無明からくる行いによって、業が形成されます。過去世の無明からくる行いから、生まれ変わりの主体、輪廻の主体になる一定の意識が形成されます。その業が魂の傾向性として刻印されますと、来世生まれ変わる時の魂の主体となる「識」ができます。
この生まれ変わりの「識」が、身体の中に宿ってくることを「名色」と言います。『名』と『色』は精神と肉体あるいは、心と体を意味しているようです。
しかし実際は、「名色」の段階では、まだ意識は霊界で対機中です。一方おなかの中では、動物の子どもの様なものが出来上がりつつあります。
精神と肉体という意味の「名色」は不適切であって、本当の意味では、肉体が明確化してくるという「名色」といった意味合いの言葉のほうが正しいようです。魂が宿っていないので心と体という意味の名色という言葉は正しくありません。悟りの挑戦(上)参照
それから、「六処」という「眼・耳・鼻・舌・身・意」という感覚器官が明確になってきます。感覚器官が発達してくると、その器官に対応する感触「触」を感じとります。
感触がわかるようになると、感じとる能力、感受性がでてきます。感じとったものに関して、自分の感想、考えを持てるようになる精神作用の一つです。
感受性がでてきますと、自分の好き嫌いが明確になり、欲望がでてきます。これが「愛」で、キリスト教的な博愛や、与える愛という意味ではなく、パーリ語で「タンハー」渇愛という意味です。欲望がおさまらない状態です。
つぎに「取」がきます。自分の欲望の対象を手に入れたい衝動がおきてきて、本格的な執着がでてきます。このような執着の心が何年も継続していくと「有」の状態になります。
今回の人生で身に付けた、魂の傾向性です。
そしてまた来世、生まれ変わりの「生」があり「老死」となります。

最初の無明と行が過去世に対応しています。人間の生まれ変わりが前提にあるので、当然、霊界を肯定した思想になっています。

転生輪廻の思想を、分析的あるいは哲学的に解説していますから、観念論哲学に近い感じをうけますが、転生輪廻や因果応報を信じることで、人生観が全く違ってくると思います。唯物的世界観を人生の根底に持っている方は、この人生を有限として見ているのでしょうから、生きている間に好きなことをしなければ損だという考え方になってしまうでしょう。努力しても死んだら終りだと思えば、それは無駄な努力と考えるのも仕方がないかもしれません。

しかし、転生輪廻(生まれ変わり)を信じ、因果応報を信じる人達は、人生に無駄なものは無いという考え方ができるので、魂にとって本当に実りのある人生を生きていくことができると思います。

仏教を唯物論的に解釈しようとする流れもありますが、仏典を詳しく調べてみれば、霊界がなければありえない話が随所に書かれています。

現代的にも知性、理性的な判断や考え方を重視しながら、霊的世界に参入するという両面性が大切なことであると思えます。

この世的仕事能力や理知的な判断と、霊界世界という感性に近い能力とを止揚統合していく、弁証法的考えが仏教の基本にあるように思えます。





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posted by ガンちゃん at 17:49 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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