現代は哲学にしても科学にしても、客観的な証明を必要とします。
客観的ということは、自分の主観を排除して、誰が観測しても同じである。あるいは、すべての人が学びの対象として学べることが可能であり、その内容に普遍性があるということを言うのでしょう。
しかし、私が思うのには、本当の意味での客観性はないのではないかと思えるのです。
ある対象を視覚的にとらえたとしても同じように認識しているとは限りません。
視覚を通して得られる知覚内容が違えば、はたして同じものを見ていると言えるのでしょうか。
目の悪い人が眼鏡やコンタクトレンズを取り外すと、とたんに外界がよく見えなくなりぼやけて見えます。ということは、眼鏡やコンタクトレンズの機能に依存した見え方でしかないといえます。
宗教の霊的なものに関してはどのような位置付けがなされるのでしょうか。
単に、客観的ということが正しいという証明にはならないと思えます。
宗教に関して霊的な秘儀の部分で、どうしても隠されている部分もありますから、証明出来るかどうかという価値基準からは外れてしまいます。
善悪の価値判断という観点から客観性というものを考えた時に、必ずしも正しい証明にはなりえないと考えます。
霊的存在は実在であり霊天上界は存在します。しかし、誰もがわかるように客観的に証明出来るかといえばできません。
それは4次元以降を測る物差しが3次元に存在しないからです。3次元的材料ではそれより高い次元の世界を証明できません。
しかしこの場合、証明できないことがイコール存在しないということにはなりません。
バリバリの唯物論者以外の普通の人間で、愛や希望、勇気を信じない人がいるでしょうか。
私はいないと思います。やはり、人から優しくされるとうれしいですし、希望を持つことで人間は奮い立つでしょう。
しかし、愛や希望、勇気という高次の人間精神は物質的道具で証明することはできません。しかし、すべての人が心の奥底でそれを信じています。
宗教の挑戦とは、人間の心の深いところにある精神、あるいは神仏と同じ性質を有しているところの仏性を顕現させるためのきっかけを与えることだと思えます。
客観的かどうかということが、正しさの証明になるのではなく、神仏の価値基準から判断して正しいかどうかということの方が重要であるということです。
宗教とは、目にみることのできない神仏の存在と愛や慈悲について人々に教えることでしょう。
ですから、正しい宗教を学ぶ人達は自分を含めて、優しくあると同時に強くなくてはいけないかもしれません。
客観性とは確かに大事なことですが、考え方の根底に唯物論がある客観的証明では神仏の御心から遠ざかることになります。
真実の宗教は唯物論的客観性に対して挑戦し勝たなくてはいけません。
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P71
「潜在意識を引っ張り出す能力」は、非常にめずらしい。
P73「本物は一人でいい」
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岡崎久彦が、ユタやイタコにでるということは、迷っている。
あと、
つい最近、高倉腱の霊言の内容がリバティーに一部載っていた。
それだけでも、「高倉腱の雰囲気」が醸し出されていた。
他のブログを除いてみたが、そんな雰囲気毛ほどもしなかったね。