2014年10月04日

悟りに付随する霊能力

悟りに付随する霊能力

イエス・キリスト、仏陀、ムハンマド、ソクラテス等、人類の師であり続けた偉人たちは高度な霊的能力をもっています。

仏陀は六大神通力を持っていたといわれています。
六大神通力とは以下の六つの高度な霊的能力です。
天眼は、霊視能力です。人間の発しているオーラやその人に取りついている憑依霊、実在界(霊界)を透視する力であるといわれています。
天耳は、霊人の声を聞く能力であり、霊言能力等も含まれます。
他心は、マインド・リーディング読心力のことです。人の気持ちが手に取るようにわかる能力です。
宿命は、相手の想念帯を読みとり他人の運命、宿命がわかる能力で、過去世もわかるといわれています。
神足は、幽体離脱のことで、霊界を見物したり、テレポーテーションしたりする能力です。
漏尽は、霊能力を持ったとしても、たんねんに精進する能力です。
太陽の法 参照

釈尊は王宮で優雅な生活をしている段階で、六大神通力を保持していたとは考えられません。
もし、最初からそのような霊的な能力が備わっていたならば、出家して修行をする必要などなかったと思います。人間として肉体を持った以上、肉体に基づく悩みや苦しみはあったと思います。

しかし、釈尊は両極端を否定して苦楽の中道を悟られました。悟りを開かれる過程で霊的な能力が開発されていったのだと自分は考えます。

つまり霊的な能力がイコール悟りではなく、悟りを深めていく過程で高度な霊的能力を身につけていったのだと自分は思います。
あえて高度なという表現を使ったのは、巷にある霊現象と区別するためです。
ここで言いたい結論は、元々霊能力があったから仏陀は悟ったのではなく、悟りを得ることで霊能力を身につけていったという順番だと考えます。

釈尊ですら、徹底的に自分を磨きすべてのものから学ぼうとする態度で修行に修行をかさねて悟りを開き、それに付随して霊的能力も覚醒されていきました。

ましてや一般の弟子が、霊能力があるからといって霊能力中心的な物事の考え方はどうかと思います。
これは仏陀や救世主だけ霊的能力があって、弟子はそれを持ってはいけないという意味ではありません。

しかし、すぐ慢心し自分がその霊能力?があるがゆえに、他の会員より自分は偉いと思う人がいるように自分には見受けられます。
それは文章を読み発言を聞いていればわかります。果実の善し悪しは、その人の心のなかにあるものの反映です。
心で思うことは言葉になって外に表現されてきます。

繰り返し述べますが、私自身が霊的な現象や能力を否定しているわけではなく、霊的な現象には両面あるということが言いたいのです。

物質世界のなかにあって霊的世界を実感として感じとる、あるいは体験することは万に一つのことかも知れませんが、それによって人間の本質は肉体という有限なものではなく、精神や魂といった永遠不滅の存在なのだと認識することが可能です。

しかしその反面、危険性があります。霊能力がある人はこの危険性には注意がいかないようです。
その危険性とは、霊的世界においては、意図的に人を惑わす、確信犯的に悪事を働く邪霊がいるということです。霊の声を聞いているうちに理性的な判断ができなくなり、邪霊の操り人形にされ最終的には、廃人にされる可能性があるということです。

私に確固とした不動心があれば、地上的な問題や悩みに心が乱されることがなくなると思うので、その状態を長く続くようであれば、霊的な能力を身につけ霊的な体験をして認識を深めたいという気持ちはありますが、心が常に安定した状態を維持できなければ、信仰心を通して教学を深めた方が安全であると思えます。

釈尊は、悟りの道に入った者が、超能力信仰におちいる危険性をいち早く見抜き、その妄信をいましめるため、読心力以外をあまり使いませんでしたと、太陽の法に書かれています。




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posted by ガンちゃん at 16:37 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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