信者を増やしていくことも大事ですが、やめていかれようとする方をくいとめることも同じように大事であると思います。
信者になられても何らかの原因で信仰を手放してしまいます。そして信者として頑張られてきた人ほど、アンチになった時に、反対の立場に立って批判する側にまわります。
幸福の科学の教団は仏教的な教えを中心軸にして、一部ヘルメス的発展を取り入れた宗教団体であります。
霊的世界の階層性を明確に説かれている点、悟りについて、悟るための具体的修行方法、愛の本質、多次元宇宙論、宇宙人論、政治経済、学問、など幸福の科学の教えは多岐にわたっています。
このように幅広い教えによって、より多くの人達に救いのきっかけを与えて下さっていますが、その反面であまりにもアンチになる人が多いのでなぜなのか、その原因が何なのかが多少なりともわかれば対策がたつのかもしれません。
幸福の科学の信仰とは、仏・法・僧の三宝帰依です。
仏とは現状の仏陀、主・エルカンターレです。
法とは、主が説かれる教え、仏法真理です。
僧とは、仏弟子、あるいは主が創られた教団です。
信仰を手放すということは、この仏・法・僧のどれかに疑問や不信を抱いて自分のなかで問題の解決がつかず悩んだ末に出した結論なのでしょう。
仏を疑うとはどういうことか、それはおそらく、主の予言がはずれたとか、主の言葉通りに世の中が変わっていかないという他人まかせの発想。今まで自分を優遇してくれいていたのに立場をはずされた、自分にも霊能力があり主と同じような立場に立ちたいという欲心を邪霊につかれたなどあると思います。
法を疑うとはどういうことでしょうか。
おそらく最初に説かれた教えと現在説かれている教えとが矛盾している。法の一部分を取り出して自分の都合により勝手な解釈をして正しく理解しようとしない。
僧を疑うとは、そこに集う信者に対して不信をいだく。教団の活動に疑問をいだく。
あらゆる原因が考えられますが、例えば法に関して言えば、最初の段階と現在では発展の度合いが全く違いますので、発展に応じた教えが新しく説かれるのは同然だと思います。
また環境が刻一刻と変化していますので、一度説かれた法を固定化して考えるのも間違いにつながるかもしれません。今まで説いたものに対して、時期が違う、あるいは聞いている人が違うなら、相手の機根に合わせて新しい法が説けます、といわれています。
その新しい法が以前の教えと違っていたとしても時期や環境の変化によってその時に、的確な法が説かれると考える方がいいかもしれません。
ですから私達は、主が説かる法を深い意味まで理解しようとつとめ、状況に合わせて柔軟に話せるようになる必要があるかもしれません。
僧に対する疑いとはどのようなものかと考えてみますと、自分の理想や考えとあわない、あるいは、信者が一般的常識を欠落した普通以下に見えてくるなどあるかもしれません。
しかし、教団が大きくなるほどいろんなところで対立矛盾が発生しますので、信者の言動や行動がおかしいと思うのであれば、注意してさしあげることも大事だと思います。
他の信者や教団によって自分の信仰がぐらつくということは、その信仰が他の信者や教団に依存していて、自分自身の主に対しての信仰が、確立されていなかったかもしれません。
(注意:仏・法・僧は一体でありますが)
最後に悟りの極致とは何かの一説を書きます。
「真理の道にいったん入った者は、たとえいかなる状況が自らのまわりに降ってこようとも、たとえいかなる環境が己を待ち構えていたとしても、それを言い訳にしてはならない。
そうした環境は、すべて己れ自身の心の弱さに起因するのである。
己の弱さは、己自身の責任によって生じているのである。
その時、あなた方自身の、その決意が、その自覚が、本物であるかどうかを試されているのだと思わなければならない。
他人にせいや、環境のせいにすることなく、己自身の責任と思って人生行路を生きてゆくことができるかどうかを、今試されているのだと思わなくてはならない」
(私自身も当然含まれています。)
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