自分が考える正しいと思われる霊能者の条件をまとめてみます。
また、霊○ブログさんに対して一方的に問題定義している状況なので、ガンブロの意見は論点が間違っているとか、考え方に問題があると考えているようでしたら、沈黙しないで御自身の御意見を述べてください。不満がたまり、感情がぶれるとそれがまた、悪霊の狙い目になります。
悪霊といわれる存在の惑わしをうけない、正しい霊能者の条件について考えてみます。
基本的な生活態度として、自分自身の意志の力で欲望を統御し、ストイックな面がなければ、本物でないと言われています。そのようなストイック的な面が防波堤となって間違った霊存在の侵入を防ぐことになっていると思えます。
仏教の修業は、「戒」「定」「慧」と言われています。戒律を守り、禅定を通して智慧を得ることができるといわれていますが、最初の戒律を守る強い意志、常に自分自身を節制しストイックな生き方をすること事態に、悪霊の惑わしを防ぐ防波堤としての効果が、戒律にはあるのかなと思います。
また、霊現象をおこす主体となるべき霊能者は、しっかりと教学を学び理解しておく必要があると思います。
かなりの教養や知識を身につけておかなければならないといわれています。
理由は、かつて宗教を学んで地獄に落ちたような修行僧は、宗教的な専門用語を使って惑わしてきますので、そのような言葉に騙されない為にも、しっかりと知識を身につけ、日々研鑽する必要があるわけです。
また、正しい真理知識を身につけることで、霊の声がイエス様を名のり、仏陀や孔子だと名のったとしても、はたして自分に9次元霊が霊示を下ろしてくるだろうかという正しい判断ができるはずです。
一般的に霊現象をおこしやすい人は、感性的な人が多いといわれています。確かに知に傾き過ぎると、感性的な部分が鈍ってきて霊的な感覚が鈍るかもしれませんが、あえて自分の一番大切なものを護るという意味で仕方ない面があると思います。
しかし問題なのは、増上慢の傾向が強い方、自分は偉いのだと思う傾向、とにもかくにも相手を見下す傾向のある方は、いくら知識を勉強しても、最終的には魔界のものの霊指導を見破ることができません。
自惚れていて慢心していては、絶対に魔界の者の惑わしだと気がつかないのです。
また、霊能者自信の問題として、その人がこの世的に非常にコンプレックスを持っている場合、要注意であると教わっています。
もちろんコンプレックス自体が悪いというわけではありません。宗教家になるためには、いろいろな困難や挫折を経験する必要があり、その苦労のはてに神仏の道を求めて修行するということは、過去の歴史においてもよくある話ですし、自分の苦しみや悲しみを通して相手の気持ちが自分のこととしてわかるからです。
しかし、その部分が十分に昇華されていなくて、自分自身のコンプレックスや劣等感の、補償作用、埋め合わせとして、そのような霊能力を誇示し、使いたいという方向に行きますと、そこに魔界の者が入ってきます。そして、それを押さえる手段はないといわれています。
相手を見下すような発言や、自分は他の人より立場が上なのだという思いあがりがあると、惑わしをうけても見抜けないといわれていますので、注意が必要だと思います。


にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学
精舎研修で、菩薩の条件というのがあった。
で、菩薩になるには、数限りない幾多の諸条件下で、
菩薩の心境を維持しなくてはならない。
最低、最低、2、3回の魔境をくぐらなくては、菩薩になれないと。
とある。
さあて、ブログ村で、何やら自称9次元霊を降ろしてる御仁は、
何回魔境をくぐったのかな。
で、その自称9次元霊を降ろしてるというバカに言うが、
総裁先生のためなら死ねるのかどうかだがね。
ちなみに、自分に、論戦挑んだ、ブログ村のPは、
自分に、「総裁先生が死ねと言ったら死ねるか」と、
とい詰めて、こっちが、Pについて逆に同じことを問い詰めたら、
そのPは逃げた。(爆笑)
で、そのPは、その自称高次元の○言ぬしを、持ち上げていたがね。
「信者が9次元霊の霊言をすることは仏法真理に反しているのでは?9次元霊は総裁にしかかからないのでは?」という質問をした場合の想定される反論
↓↓↓↓↓↓
→それは教条主義だ。知識ばかりで霊的な事がわかってない。
→霊的なことがわからないから、頭でっかちのレプタリアン信者が、霊言のできる優秀な信者を悔しくて攻撃しているだけ。わからないなら黙りなさい。(某子羊さん)
→高級霊でも光を落とせば信者に入れて霊言できる。
→「総裁しか9次元の霊言ができない」という考えだと将来、9次元霊の霊言をする者が現れた時に迫害の原因になるので良くない(K氏)
→「救世主は同時代に1人」という教えは古い。ネルソン・マンデラが9次元だったように、9次元霊が同時期に地上に肉体を持つことがある。だから「総裁以外は9次元の霊言を降ろせない」という理屈はおかしい。
→トスの霊言で言われていたように、これからは末端の信者であっても自由自在に霊言をするようになる。古い教えにしがみついてはいけない
→何よりもエル・カンターレ信仰が大事。霊性革命の教えから見れば、教条主義の三宝帰依は古い。
まあ私は脱会したので、どちらの味方もしませんけどね。では頑張って議論してください。
だから、「あれ? おかしいな?」と思ったら、武器を捨てべきです。
ただ、このアマーリエなるものも、他のブロガーに移動していきますからね。
結局、全ブロガーがこの件から何かを学ばなければ、何の解決にもならないわけです。
あるブロガーから批判された時、悪○が来ました。
苦しくなったので、神社に参拝したら、というか、境内に入ったら、悪○が離れました。
そして、境内から出たら、また来ました。
で、ここが重要なのですが、その後、反論したら、悪○がバリッと離れたんです。
さて、この悪○はどこに行ったんでしょうか?
そうです。
きっと、その方に行ったんです。
こういう現象が起きているのなら、じゃあ、どうすればいいのか?
答えは、この記事に書いてある通りですなんですが、いくら指摘しても、同じことが繰り返されるのは火を見るよりも明らかで、おそらく、癒○さんがブログを削除しても、次は、私○さんに移動します。
「ここをどうするか?」ですね。
そうですね。
私の解決方法としましては、ガンさんの意見意外に、「活躍の場を他に作る」という考え方が必要だと思います。
癒○さんは、「指輪物語」みたいな、整然とした小説を書きたいんだと思うんですよね。
「指輪物語」の神話部分の「シルルマリオン」なんか凄いですよね。
創造神が「エル」ですからね。
あれは要するに、アトランティス種が消えて、現代文明に移行する過程をファンタジーで描いたものですよね。
霊的には、ね。
癒○さんは、そういうものを書きたかったんでしょう?
だったら、反省して、さらに努力して、そのあと、もう一度、書き直したらどうでしょうか?
それなら、自分も納得できるでしょうし、ね。
分派活動なんかしないで、文学賞を目指しましょうよ。
癒○さん。
ガンさん。この場をお借りして、申し訳ございませんでした。
ここを離れる前に、癒○さんの生き筋について、書いておきたかったんです。
が、今は面倒なのでしない。
たとえば、トス神がこれからは、末端の信者でも自由自在に霊言できるようになる。
という件でも、それには、信仰の柱がきっちりたって、
信仰心のレベルがあがればの話であって、
信仰心のレベルがどうでもいいという話ではない。
また、高級霊でも光を落として霊言できるというのは、
仮にそのようなことが可能であったとしても、
高級霊側に、そのような必要があったと認めた場合の限定条件付きだし、それに、きっちり信仰心がこれまた上がればの話であって、信仰心を無視してのそのような現象はありえない。
仮に、信仰心がどうでもよいというならば、それこそ、何をかいわんやだ。
逆に、ということは、こういうことをいう時点で、霊言をしている本人の自尊心が非常に満たされる論法だ。
つまり、私(霊言している本人)は、それほど、重要な人物なのだ。
ということを言いたいがためのな。
また、霊性革命は、信仰心が上がることが必須なのだよ。
ついでに、ネルソンマンデラが、9次元ということにかんしても、
十分説明はつくし、似非霊言には十分反論可能。
ついでにいえば、一番最高の霊言は何か。
一番最高の霊言とは、我々信者が、総裁先生の法を実践し、
かつ、それを、一般衆生に説くことだよ。
つまり、これが、一番この世とあの世を貫いて一番最高の霊言現象なのだ。
それが、わからないという段階ですでにアウト。
霊的なことがわからない教条主義者といった子羊のPは、
何回も同じことを書きたくはないが、
当方に、「総裁のためなら死ねるか」と問い詰めて、
逆にこっちが同じことを子羊のPに問い詰めたら逃げた愚か者。
まあ、連中の言うことなんか所詮その程度。
連続すいませんね。
>光の量をおとせば、霊言できるというのは、悪魔の論理ですね。
悪魔なら、力の強いものが弱い者を追い出して乗っ取ることができる。
そもそも、光の量とは何かというのがわかってないし、
光の量をおとすという意味もわかってない。
私たちは、「信仰心」について論じているのであって、言葉遊びに興じているわけではありませんよ(笑)。
信仰心とは、「知恵」に優位するものです。
幸福の科学は、信仰心なき知恵、信仰心なき学問、信仰心なき教育と戦っているんです。
ですから、脱会者さんと、脱会者さんが論戦した相手は、同じ性質のものなんです。
「そういう信仰心なき知恵と戦っているんだ」ということを、知っていただきたいと思います。
ね?
ですから、もし、脱会者さんが「あの人とは違う」とおっしゃるのなら、その「違う」ところを私たちに見せてくださいよ。
「私は、あの人の低い信仰心とは違うのだ!」「一緒にしてくれるなよ!」ってね。
信仰心において本気であるならば、私はあなたを認めます。