2014年09月21日

魂の表現形式としての外見

魂の表現形式としての外見

人間の外見は、年を重ねるほどに魂の傾向性が顕在化してくると思えます。
経験則からいっても外見である程度の、その人なりは観察できるものと考えられます。

女性の方に聞いたことがありますが、眉間にしわがある人はあまり印象がよくなさそうです。
眉間にしわがある人は、本人は普通の状態でいるつもりでしょうが、いつも機嫌が悪そうで、怒っている感じがします。

また、宗教的視点で観察すると40歳を超えた人で欲望のままに生きてきた人の顔には、獣の烙印が押されているようにみえるかもしれません。
霊能力がなくても、人に嫌われるようなことをしてきて、自分の欲望のままに生きてきた人の顔は確かに、歪んで見えることがあります。
そのような人の顔は、左右が対称的ではなくバランスを崩している印象を自分はうけます。
そして目がはっきりとしないで全体的に動物という感じを確かに受けます。

総裁先生も心の指針で以下のように述べられています。
『しかし、私は思い出すのだ。「人間は40歳になるとその顔に責任がある。」という元・アメリカ大統領リンカンの言葉を。
彼が問題にしたのは、魂の中身が、外ににじみ出しているかどうかだったろう。中身と連動する外見という立場を忘れてはなるまい。』

中身とは人間の肉体に宿る魂あるいは精神で、その精神性が外見に表現されるということなので、ある程度の年齢に達した方であれば、外見を通してその人がどのような人生を生きてきたかということが、推測できるということでしょう。

外見に思いが反映されるということは、自分自身の外見をチェックしながら反省することが可能かもしれません。

福音書でイエス様も「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。」といわれています。
いくら外見を取り繕うとしても、最終的には心で思うことや考えることが口をとおして外に出てきます。イエス様は更に、「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身もあかるであろう」と述べられています。
顔のなかで目は特に霊的器官のような感じがするので、その人の霊性が目に如実にあらわれてくるのでしょう。

仏教的には顔施という教えもあります。
優しい眼差しをした方が近くにいて下されば、それだけでなにか安心した気持になります。
キリスト教や仏教においても、外見に対しての大切さが述べられていますので、単純に肉体だからといって軽んじたりしないで、外見がよくなるまで精神性を高め、心の状態をよくする努力が大切であるということだと思います。


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posted by ガンちゃん at 01:19 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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