聖書やイスラム教や仏教は、過去数千年にわたって人類の進むべき方向性を提示してくれました。
キリスト教は西洋の歴史をあるいは文明を築いてきたと言っても過言ではないでしょう。
現在は大きな時代の転換期、端境期であります。永年にわたって人類を導いてきたそれぞれの宗教が、共通する価値を見いだし補い合うという方向に行かず、その教えの違いにのみ意識が向いてしまい、お互いが自分の所属する宗教の正当性を主張するあまり、他宗教を攻撃するという事態になり収拾がつかない状態になっています。
本来は根源の神の教えであるはずが、それを受け止める人間側の認識力の限界によって、相手の宗教を悪魔の教えだと勘違いし、相手を理解しようとはなりませんでした。
現代は根源の神が降臨し、すべての宗教を統合しながら、更に発展させ、それぞれの民族を地球人類としての意識に目覚めさせようとされています。
ゲーテの言葉だと思いますが、以下のように述べています。
「眼が太陽にそぐわぬものであるなら、どうして日光を見ることができようか。
我々の内部に神自身の力が宿っていなければ、どうして神的なものが、我々を魅了することができようか。」
宗教は違えども、すべての人には神性、仏性が宿っています。人間の尊さは魂の深い部分に神仏と同じ光を有しているから尊いと言えます。この神性や仏性を愛の心と言いかえていいかもしれません。
だからわたしたちは過去で説かれた宗教を学ぶ必要があると思うのです。
(もちろんすべての人の強要するつもりはございません。)
西洋文明を導いてきたキリスト教を学ばないで、西洋人の気持ちを理解することできるでしょうか。相手が信じている宗教を理解しようと努力する姿勢も愛に基づいたものであると思います。
総裁先生でさえ、数えきれないほどのあらゆる分野の本を読まれています。なぜでしょうか。それは一人でも多くの人を救いたいという愛の気持ちで読まれているのでしょう。
より多くを知ることは、より多くの人達に、導きの手を差し伸べることが可能になるからです。
もしかしたら、過去の宗教や哲学を学ぶことは、ただの知識の寄せ集めにしかすぎず、あれこれと説明してその人が自己満足しているだけである。聖書に書かれていることも、過去の出来事でしかないと思っている人もいるかもしれません。
しかし私はこのようなことを思っていたり、サラッと書いたりできる人の心のなかにこそ、危険なものが、恐ろしいものが潜んでいるのではないかと考えます。
現代は確かに仏陀の本体がお生まれになり、かつてない広大無辺な法が説かれています。それを学ぶことで過去の宗教を学ばなくとも、自分にはわかっているのだという考え方もあるかもしれません。
しかし、仏陀と仏陀の説かれた法は素晴らしくとも、それはあなたが素晴らしいということとはイコールではないということです。
信者歴何十年であろうとも、その発言が常に上から目線である人がどうして悟っていると言えるのでしょうか。
過去の宗教をふまえて幸福の科学の教えを学ぶことで、過去の宗教の共通点が浮き彫りとなり、寛容さがうまれ、説得力を持つようになるのではないかと思います。
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