中途半端に仏教を学ぶことの弊害といいますか、俗にいう生悟りほど怖いものはないという感じでしょうか。
瀬戸内寂聴自身の魂の傾向性、過去世における業など、いろんな条件による本人の問題もあるのでしょうが、日本の仏教界自体にも問題があるということが、再認識された内容であったと思います。
瀬戸内寂聴さんは、仏教でいうところの六大煩悩「貪」「瞋」「癡」「慢」「疑」「悪見」をすべて体現していたかもしれません。
ある意味で、口が達者な方であるようなので、仏教を学んだことがない人が、仏教用語を使いながら話しまくられたら、何だかわからないけど「そうかー」と思ってしまうかもしれません。
瀬戸内寂聴さんの問題もさることながら、日本仏教界における闇も明らかになったと考えられます。
やはり、天台宗の系統である天台本覚思想に問題があります。日本の仏教界における間違った思想が、ここから流れているために、仏教における修行論のところがすべて吹き飛んでしまいました。
「一切衆生悉皆成仏」すべての人は成仏します、仏様になってしまいますという考え方、そのままで悟った存在であるという思想であるならば、自分に都合のいいように解釈のし放題にされてしまうでしょう。現実に仏教は欲望や煩悩など、肉体に基づく欲望を否定し、人間の本質である霊性を磨きだす、修行を完成させる過程で、どれだけ多くの人に法をお伝えするか「上求菩提・下化衆生」が仏教の本道だと思うのですが、そのまますべてが肯定されるならば、仏教でも宗教でもないと言わざるをえません。
トマス・アクィナスは、どの信仰を選ぶかは、理性による判断が大切であるというようなことを言われていたと思います。
もちろん、理性に基づく合理的判断だけでは信仰が成り立ちませんが、信仰する前の段階で、どの宗教がより神の教えを体現しているかを判断するのは、優れた理性によるものであるというようなことを書かれていたと思います。
仏教は基本的には、自分自身の努力による自己確立が大切であるという教えだと思うのですが、なぜか日本に伝わってくる過程で、一切衆生悉皆成仏、そのままで悟った存在であるという教えに変形してしまいました。なぜなのでしょうか?
仏教が伝わってくる以前の日本的な文化の底流にはアニミズム(自然崇拝や精霊崇拝)があるといわれています。この石は霊力が宿っているとか、あるいは自然界にある木を崇拝したりします。また、蛇とか狐などを崇拝する動物信仰のようなものもあります。
日本人には、このアニミズムのように自然のままでありがたい的な、信仰形態が根付いているようです。
しかし高度な宗教、高等宗教には教義、教えがあります。高等宗教には、人間としての生き方はいかにあるべきかを教え、この教えに則って生きれば、天国に帰ることができ、地獄に堕ちて苦しむことはありません。しかし、教えに反した生き方をしたならば、死後、苦しみが待っていますというように、人間としての正しい生き方が説かれています。
宗教とは価値観を提示し、物事の正邪を教えるものであると教わっています。
ところが自然崇拝には、そのような物事の正邪を分かつ価値判断は必要なく、あるがままで素晴らしいという信仰ですから、これが仏教と一体になって、人間はあるがままで素晴らしい、すでに悟った存在なのだという信仰形態、天台本覚思想、だれでもそのままで簡単に仏になれるという一切衆生悉皆成仏になってしまったのかもしれません。
この天台本覚思想を何とかしなければ、第2、第3の瀬戸内寂聴や、間違った仏教学者が現れてしまうと感じます。
やはり仏陀である大川総裁先生の説かれる仏教的世界観に基づいて、日本にある間違った仏教の教えを正していく必要があると思われます。
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