人間は霊的存在と言いつつも、肉体に宿ると霊界で生活していた記憶がすべて忘れ去られてしまいます。人間の記憶を内的記憶と外的記憶にわけ、外的記憶というのはこの地上における体験、内的記憶は霊界の記憶として、分類することが可能であると思います。この内的な記憶の中に過去の転生で経験した外的記憶がすべて、保存されています。想念帯といわれる領域に過去になしてきた、罪や美徳などがすべて記憶として残されていると教わっています。
肉体に宿ることで転生の記憶がすべて消滅したように思いだすことができないのは、今回の魂修行における学びの妨げになるからであるとも教わっています。
しかし、人間としての個性の違いがあるということは、魂の傾向性に違いがあるということで、その違いは、転生の過程で積み上げきた経験の違いであると考えることができると思います。
霊的実体験をしたすべての正しい宗教家、あるいは哲学者、神秘主義者が言われているように、霊魂がまとう肉体は、これは衣服と同じです。肉体は霊魂を覆い隠しますが、霊魂はいずれ肉体という衣服を脱ぎすてて実在世界である霊天上界に帰ることになります。
霊的実体とは普遍的なものです。その進展に始めと終りがあり時期が来ると停止する、あるいは死を迎える物質世界とは違います。
しかし、真実の宗教家以外でも自分の前世の記憶を思い出す人もいます。また霊的体験、光の体験をした人もいますが、一般的にそのような体験は個人的な場合が多いので、人に話さないことが多いのかもしれません。また、信用できる一部の友人には話すに留めていることが多いのではないのでしょうか。
また、肉体に宿ると『常楽我淨』という肉体我からくる『四顚倒』、四つ価値観がひっくり返った考え方に、はまっていきます。
常は肉体や物質的なものが常態であるという見方です。この世は無常でありますが、肉体こそが自分であるという常見です。
楽は、快楽の楽で地上における肉体を喜ばすことで、欲望が肥大化して精神性が低くなる状態であると思います。
我は、我見で自分がすべて自己中心的な自我であることです。
淨は、肉体などが清潔に見えるという錯覚です。
自分の価値観が肉体中心になってきますと常楽我淨の世界に入っていき四顚倒という間違った考え方にとらわれていきます。
肉体が中心になってきますと相対的に精神性が薄れていき、霊的な自分が失われた状態になり、霊界における記憶が更に閉じ込められてしまうのでしょう。
仏教の教えには、「苦・集・滅・道」という四諦八正道という教えがあります。
苦しみには必ず原因があり、その原因が何なのか反省しながら、その苦しみの原因を取り除こう、苦しみの原因が何なのか真理知識に照らし合わせて、あるいは智慧を使って解決していこうと思うことですと教わっています。
前世の記憶を明確に思いだすことはなかなかできませんが、幸福の科学の教えにふれて集われた人達は、霊的な世界に住んでいた時の真実なる自分の姿を、思いだしているのでしょう。
それは霊界にいた時の記憶が間接的によみがえっているのではないでしょうか。地上に生まれた時点で霊的体験は一般的にはありませんので、本を読んだりして霊的世界にひかれていくということは、前世の記憶が一部によみがえったのであると考えられます。
ですから、唯脳論がいうように人間の考えや思いは、すべて脳が管理しているわけではなく、霊界にいた時の自分の記憶が真理にふれて共鳴したと認識できます。
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