大乗仏典を参考に龍樹の思想を考えてみます。もちろん大乗仏典の龍樹の関係だけでも膨大な量になりますので、その一部だけということになります。
龍樹は紀元2世紀頃、インドに出て大乗仏教の中興の祖と言われ、さまざまな宗派の宗祖になったという意味で八宗の祖とも言われています。
龍樹の空の思想とは、この地上において本当の意味で実在するものは何も存在しません。あらゆるものは見せかけだけの現象にすぎません。つまり、いかなるものであってもその本質を欠いているということです。
あらゆる事物は、他のあらゆる事物に条件づけられて起こってきます。空とはけっして無ではなく、断滅でもありません。肯定と否定をこえたものであり、「有」と「無」をこえたものでもあります。
ですので、空とはあらゆる事物の依存関係にほかなりません。すべてのものは相依って成立しています。
例えば、ある物を「長い」といいます。「長い」というのは、「短い」という観念に依存して成立しています。逆に、「短い」という観念は「長い」という観念に依存して成立しています。
「清らか」という価値表示的観念は「不浄」という同じく価値表示的観念に相互依存しています。
いろんなものが相互依存、相互限定して成立しています。これは縁起とも言います。いかなる存在であっても、孤立したものではありえません。
龍樹の思想の根本は空の思想です。龍樹の多くの著書の中で有名なのは『中論』だと思いますが、中論の『中』とは正しさという意味であり、中道のことだと理解しています。二つの対立した極端がある時に、そのどちらでもないということです。固定的な観念はすべて否定しています。
龍樹は次のように述べています。
「去るはたらきなるものが、即ち去る主体であるというのは正しくない。また、去る主体が去るはたらきからも異なっているというのも正しくない。」
一般的に、ものが去っていく場合<去る主体>があり、それと<去るはたらき>が同時にあると考えます。しかし、<去る主体>と<去るはたらき>が同一のものであるなら、2つの言葉があるわけがありません。また、<去る主体>と<去るはたらき>両者が別のものであるならば、この二つはどうして結びつくのか?だから<去る主体>と<去るはたらき>は別のものと考えても、同一のものと考えても<去るはたらき>は成立しないと述べています。ちょっと詭弁のような気もしますが、そのように述べています。
また、いったい<去る>というのは、いつのことなのだ?すでに去ったものは過去にあるわけで、また、いまだ去らないものは、未来に属します。だから、それは去らない。また、<現在去りつつあるもの>が<去る>と言えるかもしれませんが、<現在去りつつあるもの>をつきつめて考えてみますと、過去か未来のどちらかに入ってしまいます。故に、<いま現在去りつつあるものが去る>ということは有り得ないということです。
これはキリスト教父アウグスティヌスの時間論に近い考え方でないかと思います。
アウグスティヌスは『告白』の中で次のように述べられています。
「もし時間が恒常であるならば、それは時間ではないであろう。なにものも過ぎ去るものがなければ過去という時間は存在せず、また、なにものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在も存在しないであろう。過去はもはや存在せず、未来もまだ存在しないのであるから、どのように存在するのか?また現在もつねに、現在であって過去に移り変わっていかなければ、それは時間ではなく、永遠であろう。現在はただ、過去に移り変わることによってのみ時間であるならば、すなわち時間はそれが、存在しなくなるということによってのみ存在するといって間違いないであろう。時間は過ぎ去っているとき知覚され測られているが、しかし過ぎ去ってしまったら存在しないので知覚することができない。過去、現在、未来とは心の中に存在し、心以外にそれを認めないのである。すなわち過去のものは現在の記憶であり、現在のものは現在の直覚であり、未来のものは現在の期待である。私は時間を測ることを知っている。しかし私は未来を測るわけではない。未来はまだ存在しないからである。また現在を測るわけでもない。現在はどんな長さにも広がりを持たないからである。また過去を測るわけでもない。過去は、存在しないからである。それでは何を測るのか?現に過ぎ去っている時間を測るのであって、過ぎ去った時間を測るのではない。」
一つの実体があって、それがいつまでもの続いているものではなく、因縁によってつくられたものです。また、因縁が去れば消えるということ、それが空ということです。つまり、空と縁起は同じ趣意になると思います。
また、空を体得した人は、生命力と力に満たされて、いっさいの生きとし生けるものにたいする慈悲をいだくことになるといわれています。慈悲と空とは、実質的には同じであります。
我と汝が相対しています。そこに隔たりがある限り、我と汝の対立はいつまでも続いていくでしょう。しかし、その根底にある空の境地に立って、自分の身を相手の立場に置き換えて考えてみますと、そこから本当の意味での愛が成立します。愛とは仏教的には慈悲に相当します。
また、感覚的なものは、すべて過ぎ去っていくものであり本質ではありませんが、人間の魂の核の部分は仏性、神性が宿っています。すべての現象を過ぎ去っていく空としてみながら、仏性を本質として見た時に、自他はこれ別個に非ず一体なりという考えになり、そこに他人も自分も独立した関係ではなく、すべてはつながっているという、慈悲の気持ちがおきてくるのではないかと思います。
また、大乗仏典・大智度論 中央公論社には次のように書かれています。
「例えば、「薬」と呼ばれるものは、それが効く病気との関係の中で薬として存在するのであって、それ自体の本来的な性質において「薬」として存在しているわけではないのであると書かれています。」
風をひいて頭が痛いのに、頭に傷薬をぬっても薬としての効果は期待できません。
「仏の教えの中で、貪欲・瞋恚・愚痴という、人々の心の病を治療することについて語られる場合にも同様なことがいえます。
身体を不浄であると観察すること(不浄観)は、貪欲という病に対しては適当な対症的治療法と呼ぶことができますが、瞋恚という病に対しては適当なものということができず、対症的治療法ではありません。なぜなら、身体のうちに諸々の欠陥があることを観察するというのが不浄観なのであり、
もし、瞋恚という病におかされている人が自分の身体に諸々の欠陥があることを観察したならば、ますます瞋恚の炎が燃え上がることになるからです。
また、慈悲の心を思い起こすことは、瞋恚という病に対しては適当な対症的治療法ということができるけれども、貪欲という病に対して適当なものということはできず、対症的治療法ではありません。
なぜなら、慈悲の心というのは、人々の内にある好ましいことを見つけ出して、その長所を観察することでありますが、もし貪欲の病におかされている人が、他人のうちに好ましいことを見出してその長所を観察するならば、きっとますます貪欲になるからです。
また、物事はすべて原因や条件から成り立っていると観察すること(因縁観)は、愚痴という病に対しては、適当な対症的治療法ということができますが、貪欲や瞋恚といった病に対しては適当なものとはいえず、対症的治療法とはいえません。
なぜなら、まず、はじめに誤った観察(邪観)があり、この誤った観察から誤った考え(邪見)が生じてくるからであります。そして誤った考えというのは愚痴(おろかさ)に他ならないからであります。」
相手に合わせて対機説法ができるということは、慈悲の現れの一つであると考えます。
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