本来であれば、魂の質を或る高さまで発達させることができた時に初めて主は、その修行者に対して霊的な秘儀を授けるのではないでしょうか。
しかし、主は霊言を一般公開されています。本来なら霊言は宗教の秘儀の部分で修行がある程度、完成された修行者のみに開示されるべきものだと思えます。
(この意味で、現代は奇跡の時代であるといわれている通りだと思います)
高級霊が降りてくるには、まわりの磁場も関係してくるでしょうし、当然、霊言を下ろそうとする人間側の認識力と心の透明度、精神性なども関係してくると思います。
教学を真剣に学ぼうとせず、人一倍自我が強いうえに傲慢な人に、高級霊からの霊言など絶対に降りてくることはありません。
現代は批判の時代であり疑いの時代であるとも思えます。この文明生活は、尊い者に対して尊敬したり、献身的に崇拝するよりも、批判したり、裁いたり、酷評したりする方向に傾いています。
しかし、どんな批判や裁きも人間の本質であるところの仏性・神性を汚してしまい、人間の本質である霊性を失わせてしまうでしょう。
批判の時代になると人々の心の中で、信仰心というものを背後に追いやり、別の感情が心の中を占めることになります。
誰かが、その人の弱点なり欠点を批判する時に、人間の内部にある高次の認識が失われていき、愛をもってその人の長所を称賛するならば、霊的な高次の認識も深まっていくのでしょう。
その批判が私憤からきた感情的なものなのか、自分の損得に関係がない公憤なのかが、天国と地獄をわけると思います。
教学を正しく理解していなくて、どうして自分の過ちに気付くのでしょうか。まわりの人は通常なにも助言などしてくれません。してくれたとしても自分に自惚れがあり、自分は偉いのだと思いあがっていたら、人の注意など聞くはずがありません。
そのような意味で教学を深く理解することで、自分自身が間違った道に踏み込んでいかない為の導きになります。
教学を真剣に学ぶことで初めて、霊性の入り口に立つことができるのではないかと思います。
宗教的には瞑想が大事であるといわれています。内的平静の中で霊的世界に参入していくのでしょう。
内的平静の瞬間を確保することで、自分の内部にある本質的なものと非本質的なものを区別していき、認識力を深めていくのでしょう。
やはり信仰心が一番大切であると思います。その人の信仰心は第三者からは確認できません。
一時的には言葉だけを繕って、信仰心があるようにみせることはできます。
しかし、時間の経過と共にその人の内面にある本性が、肉体という表現形式を通して、具現化してくるでしょう。外見的に取り繕い、真理の言葉を使ったとしても、その人の内面が邪悪なものであれば、その人の発する波動も邪悪な念波が込められています。
その人の内面にしっかりと真理が根付いていなければ、その言葉は自分の都合によってコロコロと変わるでしょう。
例えば、種の中には、眼に見える仕方で、後ほど成長してくる植物全体の霊的な生命力が備わっています。人工的な模造品には、この内的な力は存在しません。しかし、私達の三次元的な眼には、本物の種と模造品の種が同じように見えるはずです。したがって外面的には同じように見えたとしても、本物の種には時間の流れの中で内面的本質を外面的に表現してきます。
模造品と本物は、時間の流れの中で違いが明らかになってくるのと同じように、信仰心がなく教学を軽視している人と、信仰心を内に秘めながら真理を深いところまで理解しようとする人とでは、明らかに違いがでてくると思います。
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