法は、その一部だけを取り出せば、自分の立場の正当化につかえるし、相手を攻撃することにも使えたりします。
法を体系的に理解するとは、多面的に考察していくことだと思います。平面的にみれば矛盾する内容でも立体的にみれば統合的に、総合的な見解ができるのではないかと考えます。
哲学的には、ヘーゲルが言うところの弁証法的な考え方になると思えるし、仏教的には両極端を否定した中道的な観点で、事物を考察することにあたるかもしれません。
例えば、仏教では自己確立が大切であると教えていますが、もう一方では衆生救済という観点もあります。自分の向上をめざす方向性と、多くの人達のために何かをするという方向性は平面的にみると、矛盾していますが、この違ったベクトルを融合していこうとする方向に真実がみえてくると思います。
善悪は智慧のはじまりと教わっていますが、善と悪とを分別する力は地上において大切な力です。
これによって善をおし進め、悪をおしとどめていくことが可能になります。
しかし一方で、その悪に対しても愛に基づいた許しの原理が働くことがあります。両者は矛盾していますが、どちらも正しい教えです。
これは善悪が判断できないという、あるいは善悪がわからないということではなく、神仏の御心から判断して善と悪とを分別することはできるが、その人が自分の罪を後悔した時、善悪とを分ける基準とは別の観点、愛の観点から人を許すという行為が現れてくるのだと思います。
霊の声が聞こえるという人もいると思います。しかし、その聞こえてくる霊の言葉がすべて天上界から降りてくる高級霊からの通信として解釈することには、何度も言いますが私は問題があると考えます。
私がこのように書くと、彼は霊を否定していると、その部分だけをとって勝手な解釈をして攻撃材料にする、狡賢い人間もいるようです。上記で体系的な理解が真実の観方につながるという考えを提示しましたが、私の過去の記事を観れば、霊界や宇宙、宇宙人に対しても宗教的、哲学的、科学的に証明できないか考察しているのがわかると思います。
現代の地上は、地獄界に近い位置関係にあり、あるいは地獄界と重なった空間であるが故に、声が聞こえ、通信をうけるとしたら可能性として、天上界より地獄界の方が確率的に高いと思います。
特に自我が強い人は、自分は間違えるはずがなく、常に正義の立場にたっている神々の一人であると思っているようなので、人の意見など聞くわけもなく自分が批判されたとしか思わないのでしょう。
私自身が法について意見を述べる立場ではありませんが、思うところを書いてみました。
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私も同じく真理を学んでいるものとして、どうしてこれほど理解の仕方が違うのか不思議です。
ただ、レオやガンブロを支持して下さる方は、多いようなので大変心強く思い感謝しています。