宗教が社会的な信用を得て、日本及び世界に広がるかどうかは、その宗教を学んでいる人達の人格によるところが大きいのではないかと思います。
信仰と情熱には、幸福の科学の信者としての在り方が書かれています。
プロとしての自覚、プロとしての厳しさが初期の頃から言われていました。私はこの『信仰と情熱』という本を読んだりテープで聞いたりしながら、幸福の科学とは厳しい団体だなと思いながら、反面その厳しさが、正しい宗教であるという確信みたいなものが自分には有りました。
その厳しさとは、「街を歩いていても明らかに違いがなくてはなりません。その風貌に、その雰囲気に、その眼光に、その背中に、明らかに違ったものがにじみ出ていなければならないと思うのです。
そうした聖なる雰囲気というべきものをまとっておらねば、プロとしての自覚がないに等しいといっていいでしょう」と書かれています。
この言葉は、真理を学んだとしても口だけではおそらく、聖なる雰囲気をまとうことはできないでしょう。心の深いところで理解し、自分の魂の傾向性が変わるところまで努力しないと、駄目なのかと、当時はそのように理解しました。
そのような努力の結果、どのような人格を築き上がることができるのかと言いますと、「そうした人の特徴は、会った瞬間に柔らかい温かい感じがするのです。己自身の自覚のもとに厳しい修行を為していることとは別に、他の人に対しては、柔らかい優しい光が出ていることが特徴です。」と書かれています。
これはいまだに、自分自身の目標です。
自分自身の心の中にもっている光がイミテーションの光でありたくないということです。
イミテーションがイミテーションである理由は、あまりにもキラキラとしすぎているという点です。
「一見、自分は光が強いと誤解しているかもしれませんが、その光の強さはつくられたものであり、似せられた光である場合があります。他の人の目を刺激し、他の人びとに認められたいがため、光を出そうとして一生懸命つくった光であることがあります」と書かれています。
私はこのようにだけはなりたくないなと思っていましたし、今もそのように考えています。
「本物は、深いところからじわじわと味わいのある光が出ていて、そしてその光は、しばらく眺めていると、自然に引き込んでいくような魅力を必ずや持っているはずです。
外に主張していく光ではなく、内に魅きこんでくるようなそんな光を本物は有しています」
これは一生涯の自分の目標であると思っています。
教学も大事であると考えています。一部の人が教学ばかりして寛容性がないとか、教条主義という発言をしている人を見受けますが、教学を深いところまで理解しようとすればこそ、人に話す時に、スムーズに真理の言葉を出すことができると思います。
たとえ真理からみて自分が未熟であっても、知識を知っていることで相手の悩みに対して、相談に乗ることができ、問題解決のヒントを話すこともできると思います。
プラトンも、政治に関してですが、以下のように述べています。
「教育をうけたことがなく、真実というものを経験したことがない者には、国家のじゅうぶんな統治など、できっこないが、また、教養を積むことだけの生活に終始することが許されてきたものにも、それはできぬということだ。前者は人生の唯一の目的を知らないからです。〜後者は、まだ生きているうちから幸福者の島(英雄たちのあるものは海の果ての島に送られて、幸せに暮らしているという伝説)に移住してしまったようなつもりになって、すすんで実践することはないからです」
国家を宗教に置き換えてみますと、教育と実践は両方大事であると述べられています。教育(基礎知識)を受けているからこそ、実践に役立てることができると思います。
宗教がすばらしいと認められることは、その宗教を学び実践している人達の人格が向上したことを意味していると考えます。
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学