自由とは、自分自身の主体的意志にもとづいて行動し、その結果に対しては責任をとるという態度だと考えます。自由といっても各個人にあてはめて考えますと、認識の広がりや、深さ高さによって自由が条件づけられているものと思います。
本来、人間には自由が与えられていますが,しかし、自由自在ではありますが、知らないことに関しては思考することも、行動をおこすこともできません。
この自由意志を、どの方向に使うかによって、人間は成長し、また、堕落してしまうこともあります。自由意志を与えられているということが、因果関係や縁起の理法が成り立つための根拠であり、自由な行為に基づいて現れた結果に対しては、自己の責任が発生します。
カントは言います。「おまえの根本命題がすべての人に当てはまるように行動せよ」。
しかし、この考えは個的な意志、行為を殺してしまいます。大事なのはすべての人に当てはまるような行動ではなく、個々の状況に合わせて、何をなすべきかが問題なのだとシュタイナーは述べています。
個々の場合、状況にあわせて道徳原則を引き出せない人は、個的な意志に基づいて行為しているとはいえません。
しかし、ある程度の自己確立ができていない人に対しては、強制的に戒律や法律を適用してもいいのではないかと思います。
「私は、私の行為を通して実現しようとしている対象への愛と結びついている」という思いや姿勢が大事なのであると思います。
道徳規則に記載されているというだけで行動している人は、主体的な意志に基づいて行動しているとは言えず、ただの執行人にすぎない、と厳しいことをいわれる方もいます。
この行為は良いことだから行う、この行為は悪いから行わないというように悟性的(観念論的な意味での悟性)判断をしてから行動するのではなく、私が行動するのは愛に基づいてである、と言えるぐらいの自分になれればいいなという感じはします。
それゆえに単なる義務の概念は、自由を排除してしまいます。なぜなら、個々の在り方を肯定しようというのではなく、一般的な規範に当てはめてしまうからです。
愛とは結びつける力であると教わっています。
宇宙には二つの力が働いていると言います。
一つは上記で書きました、結びつけ合う力です。もう一つはその反対の力、排斥しあう力です。この結びつけあう力こそ、神の力であり、この力を妨げるもの排斥しあう力こそ、私達が認識している地獄という世界の暗黒の力なのでしょう。
自分の思うこと、考える内容と行為が、結びつけあう力なのか排斥しあう力なのか、二つの観点からチェックすることで、今の自分の立ち位置がわかると思います。
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