思考実験です。
例えば、五感をこえた感覚器官が人間の肉体に備わっていたら、どのような人生観、世界観になるのでしょうか。もし、第六の感覚器官が人間に備わっていて、その感覚器官を通して、3次元空間あるいは、4次元時空を超えた5次元なり6次元なりをつかみ取ることができれば、何千年前からいる唯物論的な哲学者、唯物論的な科学者はいなかったかもしれません。
五感までの器官では、物質的な存在しか確認することができません。必然的に経験できる範囲も限定され、方向性を間違えると、唯物論的な人間になり自分を超えた尊い存在に対して目を向けることがなくなり、自分が一番賢いと錯覚していきます。
感覚器官の機能に依存した、条件付きの範囲以外は、まったく目隠しをされた状態になるので、感覚器官が、真理を測る絶対的な物差しだと思うと、人間は自惚れます。
しかし・・・・
では、どうして仏は肉体的感覚器官を、五感までしか与えてくれなかったのでしょうか。
ヨハネの福音書には、有名なトマスの話が出ています。
イエス様の復活に関して、イエス様がトマスに対して「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じないものにならないで、信じる者になりなさい。」
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者は、さいわいである。」と述べられています。
つまり、見ることや聞くことによって対象を確認したことを、一般的には信じるとはいいません。それは知ることができたということであり、信じるとはいえません。
信じるとは、信仰心とは、目に見えない尊い存在が私達を見守っているということを受け入れることであると思えます。
「見ないで信じる者は、さいわいである」
この言葉に、なぜ人間の肉体が五感までしか与えられていないのか、その理由、ヒントがあると思います。
人間は、生まれてくる前は天上界において、本当の意味において自由自在の存在で、自分の認識に応じた次元において生活しています。
霊的な存在であれば、神や仏を信じることは容易であり、それほど難しいことではないと思います。
人間は永遠の転生輪廻する存在であり、修行という観点から人間を考えてみると、天上界で自由自在で生活した自分という存在が、地上に生まれ変わって目隠しをされた状態で、いったいどこまで神や仏を信じることができるのか。悟りの障害ばかり多い地上においてどれだけ、真実の世界観を獲得できるかが試されていると教わっていると思います。
イエス様が見ないで信じた者はさいわいであるとは、そのような意味も含まれていると思います。
また、霊的世界は善悪の価値観が明確にわかれているので、目隠しされた状態で、霊的世界における善をおこなうことは、魂修行の観点から10倍の成果があると言われています。
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