元信者さんから、思考についてご自身の考えを述べられていましたので、自分も思考について考察します。
幸福の科学の信者ではない人の考えを参考に、自分の考え方を整理するのも勉強かなと思います。
「思考は幻想を現実と思いこませる。時間も幻想、未来も幻想、過去も幻想であるのは“今だけ”という考えです。」と述べられていました。
これを良い方向で解釈すると、仏教的な『空』の思想とも考えることが可能かなと思います。
仏教的な空の意味は、一切諸法は、他の法(存在)に条件づけられて成立していますから、固定的・実体的な本性を有しないものであり、無自性でありますが、無自性、自らなる性質がないものは空であると言うことです。
物質的現象は実体がないのであり、実体がないからこそ物質的現象で有り得ると言えます。
また、ナーガールジュナは、「有」を否定するとともに、「有」がない以上、有と相関関係にある無もありえません。さらに有と無を否定する以上、事物の恒常性を主張する見解(常見)と事物の断滅を主張する見解(断見)とを排斥せねばなりません。(断常の中道)
上記の考えを方から、思考も恒常的でないという意味で、実体を持たない空であると考えることも可能かなと思えなくもありません。
仏教的な空の意味の一つは、地上は仮の宿であり、変転変化していくもの、流動的なものに執着することで、苦しみを作るので地上的なものにあまり執着してはいけないと言う意味であると思いますが。
時間に関しては、時の長さの単位“秒”はセシウム原子の出す特定の色の光の周期の9192631770倍であるとされています。ニュートンはあらゆる観測者にとって一様に流れる時間(絶対時間)を仮定し力学の体系をつくりあげた。
キリスト教父アウグスチヌスは『告白』の中で次のような時間論を展開しています。
「もし、時間が恒常であるならばそれは、時間ではないであろう。なにものも過ぎ去るものがなければ、過去という時間は存在せず、また、なにものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在も存在しないであろう。過去はもはや存在せず、未来もまた存在しないのであるから、どのように存在するのであろうか。また、現在も常に現在であって過去に移り変わっていかなければ、それは時間ではなく、永遠であろう。
現在はただ過去に移り変わることによってのみ時間があるのならば、すなわち時間は、存在しなくなるということによってのみ存在すると言って間違いないであろう。
時間は、過ぎ去っているとき知覚され測られるが、しかし、過ぎ去ってしまったら存在しないので知覚することができない。
過去、現在、未来とは心の内に存在し、心以外にそれを認められないのである。
すなわち過去のものは現在の記憶であり、現在のものは現在の直覚であり、未来のものは現在の期待である。」
上記の意味は、魂あるいは心に関しては、未来や過去に移動することができると解釈できます。
物質世界に関しては、時間は常に現在という一点であり変転変化していますが、魂に関して時間は広がりを持っていて過去や未来に移動できるということでしょうか。
人間の本質は霊的存在であり、魂であり心であると定義した時、時間も過去も未来も、幻想ということができなくなり、あるのは『今だけ』という考えは否定されるべきものであると自分は思います。
人間の知覚世界の範囲は、感覚器官の能力、機能や性質に依存しています。あるいは、感覚能力の範囲に限定されています。
視覚から得られた知覚内容を、思考を通して概念と結びつけなければ、人間は現実を手に入れることができません。とシュタイナーは言います。
思考こそ人間の本質であり、思うこと考えることこそが、その人の人間としての本性であると思います。
心の中が邪悪な思いで満ちていたら、表面上をいかに取り繕うとも、その人間は邪悪な人間であると言うことになります。もちろん仏性や神性を否定しているわけではありません。
表面上をかざり、言葉を飾ってもその人から発信されている波動は、時間の経過と共に、その人がいかなる人物であるかということ波動を通しておしえてくれます。
科学者のパスツールは以下のように述べています。
「科学の道を少し進むと神から離れる。だが、科学を究めれば神に回帰する」
フランシス・ベーコンも似たような言葉を述べていたと思いますが、真理についても言えるかもしれません。
例えば、幸福の科学の教えを少し読んだだけで、あるいは、自分の関心領域だけを読んだだけで、すぐに自分ができあがってしますようでは、未熟であると言えるかもしれません。
もちろん私自身も、まだまだ未熟な理解ではありますが。
ちょっと題名と結論が一致してないような気がします。どうもすみません
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よく勉強しましたねー
ただね、その記事も思考で作ってますよ。
つまり、幸福の科学の信者は思考に勉強のしすぎという餌を
あたえて、論文も思考で書いているので、悟りとは関係ありませんよ。
大川さんの教えの元に修行すると思考人間が出来上がるんです。
なんべんもいいますが、あなたの悟りが高いのであるなら、
勝手に沸いてくる、頭の中のお喋りを止められますか?
止めよう止めようとしてもぐるぐる勝手なお喋りがとまらないなら、
悟りのさの字もいってませんよ。
心の統御と同じで思考の統御が出来るようになったら、反論してください。
いいですか? 大いなる存在(ハイヤーセルフ)が思考を使って話せるようになってください。
あなたの記事は自分自身が思考に使われています。振り回されています。
それを スピリチュアルエゴ といいます。
一見冷静に対処できるように振舞ってますが、動揺を感じられますよ。
思考と本当の自分(ハイヤーセルフ)の間にスペースを
作りましょう。
一言だけ言っときますが、私は自分自身が悟っていると思っていません。
ただ、客観的な自分の姿はどうなのかという意識は持っています。
第一印象は比較的良い方ではないかと思っています。
よくやさしいと言われるので、悟りとは直接関係がありませんが、思っている思考内容が、肉体にある程度、はんえいされているかなと思っています。元信者さんからは、お世辞だろう、あるいは、自惚れに聞こえるかもしれませんが。
人間の思考については、簡単に語り尽くせないので、別の機会に。
元信者さんはそもそも読みやすいまともな文章を書けていないじゃないですか。
あなたみたいな人は「悟り」を云々する前に、まず基本的な学力と常識を身につけるべきです。
以前にあなたが書いたコメントもそうですが、意味の通らない冗長な文章を延々と書き続けて、一体なにがやりたいのでしょうか。支離滅裂な文章を書いても誰も読みませんよ。
こんなコメントもいちいち読解し、返答しなければならないガンちゃんさんは気の毒ですね。
霊界の深層海流さんのように、信じていただける人が、一人でもいて下されば、それだけでもかんばる事ができます。
いつも読んで下さり、応援して下さって、心より感謝しています。