同じ真理の書籍を読んでいる、あるいは、同じように宗教的信念を持ちながら、教義の隅々まで同じように受け入れている信者がいると考えます。・・・・というのに彼らの人格は大きく異なっています。
気高い人物もいれば、正反対の人物もおり、柔和で穏やかな人もいれば、粗野で怒りっぽい人、正直な人もいれば、嘘をついて人をおとしいれようとする人、どうしてこのような違いがあるのでしょうか。
これが意味することは、明らかです。
これは、頭の信念(知的信念)で止まっているからであると思えます。
知的信念とは、知性的、理論的でありますが表面的なものであり、それがその人の人格や人生を形作るパワーまでは、持っていないからであると考えます。
この頭の信念あるいは、頭の信仰で止まっている人は、主を信じると言っても、思いや行動において、結局、この世的な判断で行動する、低次の自我(肉体の欲望あるいは本能)によって行動してしまいます。
原因と結果の法則で知られている著者ジェームズ・アレンは、『例えばキリスト教徒であれば、キリスト教徒すべての人が「私はイエス様を信じています」というでしょう。しかし低次の自我に基づいて行動する人達は「イエス様を信じる」ということの意味を取り違えているのではないかと思います。
「イエス様を信じる」とはイエス様が語り、自ら従って生きてみせた神聖な原則の数々を受け入れ、それに従って生きる、ということです。
イエス様を信じていると言いながら、行き過ぎた欲望や身勝手な行い、憎しみや怒りを人生の友として生きている人は、自分自身を偽って生きている人達です。彼らは、イエス様を信じてなどいないのです。
彼らが信じているのは、彼ら自身の動物的な自我に他なりません』と語っていました。
木の価値はどのような果実を実らすかで決まってきます。
心の信仰あるいは信念こそが、私達の人生に大きな影響を与えていると思います。私達の信念や信仰は、私達の口から出る言葉、人々に対する接し方、いろいろな行動を通じて、外界の世界に明らかになります。
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この記事は自分に対しての戒めも含めています。
常に自己変革をする気持ちでいたいですね。