2013年04月29日

道徳律(道徳法則)と愛に基づく行為

道徳律(道徳法則)と愛に基づく行為

道徳律とは、道徳行為の規範となる普遍妥当的な法則を言います。『義務』を重視する倫理学の立場で主として用いられる概念でありますが、道徳を神の命令と考える立場や、カントの提言的命令の説などがあります。
提言的命令とは、無条件的なもので行為の結果や目的に無関係に、行為そのものに価値があるとして命令するものです。
ここで言う普遍妥当的というのは、例えば日本おいては正しい行為であるがヨーロッパでは正しくないでは普遍的ではありません。また、1000年前は正しいとされていましたが、現代では正しくないという行為も普遍的ではありません。時間的・空間的にも正しいという意味であると理解しています。

カントは行為に対しての結果よりも、その動機にまでさかのぼって道徳性を問うたと思いましたが、義務で行う行為が善だとしても、はたしてその行為は最高善と言えるのでしょうか?
義務で行う行為は、その人自身の心から生じた行為ではなく、条件(義務)という外から強制された善であり、その条件がなければ、正しい行為を行うかどうか定かではありません。

善の行為、正しい行いも、愛の思いから生じた行為こそ理想の善であり、動機においても正しいことであると思います。
しかし、愛の思いが自然発生的に起きてくることは、まずないと考えてよいと思います。
愛の思いが自然とでてくるためには、自分に降りかかる試練を経て、自分の苦しみや悲しみを通して相手の気持ちを理解する、あるいは相手に共感する必要があると考えます。

ある人は道徳的な善を以下のように考えてまとめています。
「愛による善とは、道徳的義務としての善を、継続して行い続けた人にして初めて、獲得しえる境地である。訓練・努力によって愛の心とはどういうものか、ということがはじめて魂の奥深くに刻み込まれる。はじめは義務感から行っていた善なる行為が、長い間の実践と訓練、経験の量などによって、徐々に深化され、やがて与える愛の喜びというものが、まるで自らの魂の本性であるかのような深さまで、深く刻印されてゆく。
いわば道徳的義務としての善行とは、道に不慣れな人が、はじめてきた道を、地図を頼りに歩いているようなものだ。これに対して、愛による善行とは、その道をすでに知り尽くした人の歩き方に似ている。
道を知りつくす前は、誰しも最初は、その道に不案内なものだ。しかし、その道を何度も何度も歩いてみることで、やがてその道に精通するようになる。その道を歩くのが、何の苦も感じない、当たり前の行為に変わってゆく。これと同じように、道徳義務としての善行の実践・繰り返し・訓練によってはじめて、人は愛による善行を、自分自身の自然の感情として実感できるようになるのではないか」
と友人は述べていましたが、鋭い洞察力だと脱帽いたします。

もちろん、地獄に落ちるぞといった、恐怖心によって相手の行為を抑制することも必要かと思いますが、それは最終的に目指すべき方向性ではないことも確かです。

自己の良心に自己が従うこと、自分で自分を律する(自律)ことこそが、義務で行う善でなく自由でありながら、自分の意思に基づいた最高善であると思います。


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posted by ガンちゃん at 00:18 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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