カント哲学における概念は、認識の枠組み、思考の為の規定にすぎず、事物の本質は認識することができないと言われていたと思います。
人間の精神には、事物を認識するための思考形式、土台としての概念が宿っています。この概念によって対象を照らすことではじめて、私達はものや世界を認識することが可能になるのではないかと思います。しかし、私達が認識できるのは、感覚器官を通して経験し、確認できる範囲のもの、本質の一部分、現象として表現されている部分までであって、物自体あるいは本質までは認識することはできない。
肉体感覚の条件に依存した事物の認識という限界があると思えます。
概念認識は、あくまでも事物の本質を認識するところまでは行けず、五感を通して経験し、確認できる範囲に限定されています。
しかし、ヘーゲルやシュタイナーは事物の本質をみることができるという立場です。事物の本質とは概念そのものであり、概念こそ存在の本質であると言われていたと思います。
人間の精神には、すべてに共通する概念が内包されており、万物万象すべてにおいても概念が宿っていると考えます。
自分自身に内包されている概念を認識したとき、それは他者の概念をも認識したのと同じことになります。なぜなら人間の精神に宿されている概念は、神と共通する普遍妥当的なものだからです。
自分自身の精神の奥にある概念を認識することは、相手の概念を認識したと同じことであり、自分を深く掘り下げたその目で他者をみることが出来るようになるということは、相手と一体になったということであり理解したということであると考えます。
仏教的に考えるのであれば、人間の内に宿る仏性を信じ発見した人は、その自分の中に潜在化している仏性を発見したその目で、相手の仏性をみることが出来るのでしょう。
相手にある仏性をみることが出来た人は、相手と一体であり、また事物の本質を見たのと同義であると思います。
感覚器官を通して確認できた範囲こそが絶対的な価値基準として認識した人生観では本質の部分、あるいは現象として現れた一面だけの認識に留まり、実存哲学、あるいは唯物論的な人生観、人間機械論になってしまいます。人間の認識を感覚器官で確認できる範囲に限定をする考えは、あるいは、人間に対して開かれた現象面のみを真理と考える哲学は、人間を暗闇の洞窟に封じ込めた、閉じた社会の構築に他なりません。
概念とは、仏性や神性と同義であり、すべての人間が精神に宿している普遍的なものであると考えます。
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