2013年04月23日

哲学的認識1 思考と魂の成長について

哲学的認識1 思考と魂の成長について

魂の成長について考えてみます。
ヘーゲルは、動物にも備わっている魂を、精神に作りかえるのは、思考の働きであると述べています。思考内容こそ人間の本質であると考えることができます。
我々の目の前に事物が謎めいて現れるのは、事物そのものの成立過程に立てあっていないからであり、思考することで、初めて成立過程を考察することが可能になります。
私達はまず、五感を通して事物を観察し、知覚内容を得ることができます。しかし、知覚された事物は無秩序でバラバラな混沌とした状態です。その無秩序な知覚内容を統一的にまとめあげるのが、思考であると考えます。
知覚内容は思考を通して、概念と結びつけられます。概念から照射する光で照らすことにより、初めて知覚内容に意味付けがなされることになります。知覚内容は概念と思考を通して関係づけられることで初めて現実的なものになります。
しかし、観察による知覚内容が増えていく過程で、最初にあった思考内容と、矛盾し対立が生じてきます。知覚内容の範囲が広がるにつれて、これまで信じていた世界観、認識を訂正しなければいけなくなります。
新たな知覚内容に対して、今までの概念では、意味づけが出来なくなり自分の内面に対立が生じてきます。この対立・矛盾を克服していくことにより、新たな概念が形成されていくことになります。
対立を止揚統一していく仮定こそが魂の進化、成長なのであると考えます。
このように対立矛盾を弁証法的に統一する過程で、より高度な概念が形成されていくと思われます。

知覚内容は概念によって意味付けがなされ、概念は知覚内容によってより高度化していくことが可能であると考えます。
概念が高度になる過程で、観察による知覚内容が変化していきます。私達は対象を観察する時に、感覚器官を通して知覚します。
しかし、この知覚内容は身体組織の機能・性質に依存したかたちで知覚されます。
眼の器官、耳の器官は複雑な機能を有しているため、神経を通して脳に伝わる間に、情報が変化してしまい、対象をありのままで観察しているとはいえません。例えば、対象物が赤く見えたり、味が甘かったりするのは、その物自体が本質的に赤色であるわけではなく、眼の機能・性質に依存した見え方をしているにすぎません。感覚器官から得られる知覚内容は、身体の性質に依存しているため、事物の本質をみているわけではなく、対象と感覚器官との関係を認識しているにすぎません。
また、感覚器官は不完全なために、総体の中の一側面、断面しか確認できません。感覚器官でとらえることのできる現象は、変転変化するために限られた時間の幅で、これが真実であると認識してしまうのは過ちであると考えられます。
例えば、種から芽がでてきてやがて、花が咲きますが、種だけをみてこれが花の本質だと認識したらこれは過ちになります。
いずれにしても、知覚内容は思考を通して概念と結び付けることなしに、現実を認識することができません。
花の概念を認識するには、まず花の知覚内容を持たなければならず、その後に、概念の総体の中から特定の概念を取り出してきて、知覚内容に意味づけを与えていきます。


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posted by ガンちゃん at 17:53 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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