私の拙い知識で、仏陀について語るのはおこがましいのですが、現在の日本人は霊的世界に関して信じる、信じない、のレベルで、自ら深く探求し理解しようとしません。
また、お釈迦様(仏陀)の教えを唯物論的に解釈する、仏教学者もいるようです。
お釈迦さまは死後の世界を敢えて語らなかった。また、死後の世界を知ったところで、現実の生活に役立たない(無意味)と考える人に対して、自分の理解している範囲でお答えできればと思います。
最初は仏教の修業論と世界観を簡単にまとめてみます。その上で死後の世界観と現実生活の関係をまとめてみます。
ちなみにお釈迦さまが死後の世界、霊界世界を実体験として認識し、霊的世界観や霊的な善悪の価値基準を思想として普遍化したこと(仏典)に関しては、コメントに書いた通りです。
仏教の修業論は、戒・定・慧という三学であると言われています。
戒律、戒めを守り、禅定しながら智慧を得る。また、「上求菩提・下化衆生」といわれています。
自分自身に関しては常に向上を目指しながら、現時点で自分がつかんだ悟り、あるいは智慧によって、まだ真理の道を歩んでいない人達に、目覚めていただくためのきっかけを与える。
仏教の世界観とは、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、仏教の基本である三宝印と言われています。
諸行無常は、この世は変転変化し、恒常不変なもの、形状が変わらないものはありません。変化こそ真理であり、過ぎ去っていくものに、変化するものに執着することで人は苦しみをつくるという教えであると理解しています。
諸法無我は、この地上に存在するものはすべて、依存関係にあります。原因に依存し、条件に依存しています。分子は原子に、原子は、原子核と電子にというように、存在は、他の存在を条件として成り立っています。また、すべてのものは自性なるもの、自らなる性質がありません。つまり地上にある存在は、実体として存在するものはありません。定義できるような本質を有するものは、地上においてありません。それゆえに地上にあるものは、原因や条件がなくなれば、夢幻のように消えていく存在です。
これも諸行無常と同じように執着することで苦しみをつくるという教えであると思います。
涅槃寂静は、心が平和な状態、自由な境地なのでしょう。
本題に入りますが、死後の世界を知る、あるいは信じる生き方と、唯物論者の考えるように、死んだらすべてが終わりだと考える生き方では、人生の意味あるいは、生き方が百八十度変わってきます。
人間の本質は魂であり、生きどおしの命であるからこそ、お釈迦さまは修業論の大切さと説かれたのだと思います。
死んだ終りであれば、好きなよう生きなければ損です。
しかし、人間の本質は魂であり、肉体は霊の影、あるいは仮の宿です。だからこそ、上記に書きましたように、諸行無常・諸法無我の教えが生きてくるのではないかと思えます。
死後の世界と現実の生活は密接な関係にあると思います。
死後の世界は、地上の法律とは違った価値基準があります。死してなお永遠の命であるからこそ、霊的な価値基準に照らしながら、現実の生活を考えて生きていかなければならないと考えます。
つまり、霊的世界の価値基準から見て、地上での生き方には合格、不合格があるということです。合格点に達することができないときは、それなりの世界におもむくことになると思います。
結論は、地上での生き方と、死後の世界、霊界世界は密接に関係があります。その理由は、人間の本質が魂あるいは心であり、地上は一時の住みかだからです。
質問に対してのお答えになっているかどうかわかりませんが、また時間をつくって、自分の理解している範囲で、仏陀の教えと霊界の関係についてまとめてみたいと思います。
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