人は自分らしく生きようと、考え努力する存在であると思います。「自分らしく」という考えを、アメリカの心理学者アブラハム・マズローの考えを参考に考えてみます。
マズローは欲求という問題について、低次な欲求が満たされると、更に高度な欲求が現れてくると述べています。
具体的には、食事をするなど生きていくうえで最低限の欲求ですが、これを「生理的欲求」としています。この欲求が満たされると、自分自身の身の安全を求める「安全欲求」が現れ、次に仲間が欲しいことや、誰かに認められたいという「承認や自尊の欲求」に移り、今の自分自身をより向上させたいという「自己実現」の欲求に移行するとしています。
これがマズローの欲求段階説ですが、宗教に関してこの考え方をあてはめて考えるとどうなるでしょうか。人間は最初の段階では、高度な精神性を求め、神仏の存在に対して考えをめぐらすという方向には向かず、日常の生活をいかに楽しく過ごすかを考えます。あるいは肉体に関する欲望を満たそうとする最初の段階があるように思います。
しかし、日常の中で悩み事が発生し、問題を抱えたり、あるいは健康を害したりすると、人は目に見えない偉大なる存在に関心の方向が向きます。
宗教を知るきっかけは、自分自身で解決しがたい問題に直面したり、健康を害したりした時に関心が向く場合が多いのではないかと思います。
最初に肉体に基づく感覚器官から発生する欲望を充足させようとする欲求から、精神性に目覚め、宗教や、哲学や思想、人生論などに関心が向いていく段階が人生の途中であると思います。
フランシスコ・ベーコンは「浅はかな哲学は人の心を無神論に傾け、深遠な哲学は人の心を宗教に導く」と述べています。
客観的証明を求め過ぎ、確認できないものは否定するという態度は、人間を唯物論や無神論に傾けてしまう可能性があると思います。
また、宗教に目覚めてもいろんな段階の宗教があり、自分だけの判断でどの宗教が正しいのか、あるいは、どの宗教が一番すぐれた教えであり精神性を高めることができるのか迷うところがあると思います。
トマス・アキナスは、どの信仰を選択するかを判断するのは、理性であるというようなことを言われていたと思いますが、基本的に理性で判断して、正しいと思えるものと、心の教えに踏み込んだ教義があり、霊的世界からみた善悪の価値判断が説明されていることが、高等宗教の条件であると思います。
霊的世界観を提示できない宗教は、哲学や道徳と変わりがないと思います。
ヘーゲルは小論理学で、体系を欠いた哲学は学問の名に値しないと述べています。
「体系なき哲学は、どちらかといえば主観的な物の見方を表現したにすぎず、内容も勝手気ままなものである。内容は全体の一要素となるとき、はじめて正当な位置をあたえられるので、全体を外れれば、根拠なき前提や主観的確認に堕してしまう。哲学書の多くは、自分の考え方や思いを主観的に表現しただけで終わっている」と厳しい指摘をしています。
つまり、内容が全体的な観点でみると、どのような位置付けがなされているのか、部分が全体のなかでどのような関係かを説明できなければ、それは単なる主観的な思いつきと変わらないと言われています。
これは、体系的な教えは高度な哲学や宗教であると考えることができます。
幸福の科学の基本教義は、正しき心の探究であり、具体的展開としての幸福の原理です。「愛」「知」「反省」「発展」の四原理からなり、現代的な四正道です。
そして、その中心の教えは、愛と悟りとユートピア建設に収斂されます。
幸福の科学の膨大な教えはすべて、このどこかにあてはまります。つまり当会の教えは高度に体系化された宗教的な教えであり、教えを信じて三宝帰依された方は、みなさんすばらしい方々であると思います。
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