仏教に『有』という言葉があります。その人自身が数十年、考え続けてきたこと、思い続けてきた思考内容が一定の方向に固まって、別の方向にハンドルをきることができない状態、魂は本来、自由自在であるはずですが、自由に選択する幅が限られた状態と定義しても良いかと思います。
十二支縁起というものがありますが、智慧がない無明の状態で行為(行)をすることで魂の傾向性が出来上がり、次回の転生に原因として持ちこします
魂の傾向性として『有』の状態になり、来世の転生にも持ち越すという以外に、その思いは現在生きている人間の肉体にも影響します。
人生の前半、20〜30代の人達の肉体はある意味、心の中に思うことが外見に現われるということは、あまりないように感じます。
それは、人生の前半であれば、自分が努力し勉強することで、今の自分に無い考え方を身につけ、弱点を克服していく可能性があるからです。
自分で苦労しながら学び取った思考内容は、自分の魂の傾向性を変化させ、実人生を好転させる力があるのではないかと思います。
ところが人生の後半戦にさしかかると、相手の話を聞かなくなり、素直な気持ちを忘れて、努力して自分自身を変えていこうとはしません。
柔軟な心で、自分自身を変えようとしないと、想いの針が指し示す方向性が一方向となり「魂の傾向性」が出来てきます。
魂の傾向性が形成され始まると、その心の波長というか、振動数にあった方向に肉体が作りかえられていくように感じられます。
地上においては、肉体こそ自分自身であると錯覚してしまいますが、霊的世界において想い、あるいは思考こそ、その人自身を表現しています。
人生の後半戦にさしかかったその人の顔の表情や、その人からにじみ出る雰囲気は、その人が長年考え続けてきた結果なのではないかと思えます。
仏教的には、十二因縁・十二支縁起という考え方があります。
無明(智慧の明かりが無い状態)に基づく行(行為)によって、一定の魂の傾向性が形成されそれが、過去世の業として現世に持ち越します。(識)
母親の胎内で肉体の原型が形成(名色)されて、地上に生まれてきます。肉体に基づく感覚器官(六処)眼・耳・鼻・舌・身・意が発達することにより、感覚器官の対象にたいして(触)の感じ方や感受性(受)がはっきりしてきます。その対象に対しての欲望(愛)、この場合は渇愛がでてきはじめ、欲望(取)がでてきます。
それが魂の傾向性として形づくられて、これで『有』の状態になります。
そして来世の生まれ変わり(生)があって(老死)があります。
これが十二支縁起ですが、この迷いを断ち切るためには、仏法真理を学びそれを広げることで、いままので自分の考え方や傾向性にない思考パターンを身につけて人生を変えていくしかないと思います。
結論は若い時より、年齢がある程度いっている人の方が、内面と外面が一致しているということではないかと思います。
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