仏説・正心法語の真理の言葉「正心法語」の内容との関係で序章「心の中の宇宙」について感想を述べていきたいと思います。
正心法語には大宇宙に光あり 光は仏の生命なり 生命によりて人は生き とあります。宇宙に発生した光は始原の光であり、それは仏の生命であると同時に、その光のエネルギーで人は生かされている。その光の供給によって人間を含めたあらゆる動植物は生かされているのであり、その仏の慈悲がなければ、あらゆる生命及び鉱物はその存在の根拠を失い、すべては消えていく存在でもある。
人は自分勝手に生きているのではなく、生かされた存在であるということだと思います。自分が好き勝手に生きていると思うか仏の慈悲により生かされていると思えるか、どちらの考えを選択するかで、天国に行くか地獄に落ちるか決まってくるのではないかと思います。
光 分かれて七色の 虹は天空 地に架かる 仏の慈悲は広がりてとあり、七色光線の説明がされていますが、光りが分かれて9次元の七色光線に分光したとするならば、光が分かれる前の大宇宙に光ありの「光」とは9次元より高い次元でなければならない。その9次元に分かれる前の光りは、仏の生命なりとあるので、必然的に仏の存在は10次元以上ということになる。
人間は、仏の生命によって生かされていると同時に、仏と同じ光を心の奥に内在している存在でもある。それゆえに愛や慈悲、無我の思想が意味をなしてくる。もし、人間の存在が唯物論的な考えのような死んだらおしまいであるとか、人間機械論のような人間をロボットと同じようなとらえ方をするならば愛の大切さや、目に見えない人間としての素晴らしさすべてが、意味のないことになってしまいます。
自他は これ 別個に非ず 一体なりであるからこそ、愛の大切さが導かれてくると思う。
物質世界、現実世界では自分を含め、なかなか愛の思いや人に対しての優しい言葉などが出てこないが、すべての人間が魂の奥に仏性あるいは神性を宿しているからこそ、愛の発展段階説によって人間は仏に近づいていくことが可能であると考えます。
心の探究のもう一つの方法として、自と他の関係や自分と世界の関係ではなく、自分自身の内に穿ちいるとあります。仏教でいう無我の世界の説明ですが、自我が固まった状態というのが湖面に大きな波が立ってその波が個性をもっている状態と説明されています。
波である以上、必ず周波数がありその周波数の違いが個性の違いとして表現されているのかもしれません。その大きな波が静まって湖面全体が一つになるような澄みきった状態を無我の境地であると説明されていますが、まだ自分に関してみれば、見かけ上は自分と他人は独立した個別の存在にみえるし、理論としては無我とはこのような感じかなと漠然と思っていますが、現実的日常生活のなかでは、厳しい状況が続いているなと思います。
しかし、仏法真理と日常の生活が現実問題としてかけ離れているからこそ、正しき心の探究でありまた、「人生は一冊の問題集」であり、努力精進のし甲斐があると思います。
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