「愛を与える」ということが幸福の科学の原点
愛を与えることは、相手の幸福を願うこと
仏の心や神の心に合っているかどうかを知りたければ、自らの生活、生き方を振り返ってみること。身近に接する人々に、愛を与える生き方をしているかどうかを考えてみたら良い。
人は誰でも幸福になりたいと思う。幸福になりたいと思うから人から愛してほしいと思う。しかし、他の人も愛が欲しいと思っている。しかし、欲しいと思っている人ばかりでは、愛は少しも増えはしない。
人から多く愛された人は、その愛をまた他の人に与えていくことができる、また、人に愛されなかった方も奪う愛に生きるのではなく、人を愛していくならば愛されるようになる。それは他の人を幸福にしたから。人々を幸福にするということが、一人一人が最大に輝き幸福なることである。
抽象的で難しい話になると分からなくなるが、いつも原点に帰って、愛を与えるとはどういうことなのか、自分は愛を与えて生きているか、毎日反省すれば簡単に分かること。難しいことではない。
与えたことは数少なく、奪ったことは数多い。更に奪いたいと思っている人が、人間のほとんどの姿。この奪いたいという心が実は、煩悩、欲望という言葉で表わされるもの。
成功するほど欲をすてる
生きている以上、欲望そのものは無くならない。欲望を他の人々が生きる方向に合わせていくことが大事。また、大いなる放棄も大事。欲望を捨てることで幸福になるのも仏教の教えの一つ。
個人としても団体としても、大いなる成功を捨てるほど、欲を募らせるのではなくて、より素晴らしいもののために自分は何ができるか、さらに何が捨てられるのかを点検しなければいけない。
欲に欲が重なって自己愛に生き、そして奪う愛に生きるようになっていくのが人間の煩悩である。欲望が悪い方向に固まって繁殖すると煩悩になる。
煩悩は煙のようなもの。炎が燃え上がる以上、煙をなくせないが、そのまま肯定するわけにはいかない。
煙をよく取り除くのと同じように、煩悩を取り除くこと。欲が過ぎたら捨てる。それが大事
「愛を与えるということ」について話をしてきました。常に原点に回帰する心を忘れないでほしい。
以上
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