時の流れのある一瞬の時刻。
ある時刻とある時刻の間の長さ
という意味でつかわれることが多いようです。
しかし、上記の時間に対するとらえ方は物理的時間のとらえ方であり、過去から現在・未来へと一様に流れる、一方向に流れる時間で、逆方向に進むことはないと考えられています。
一般的感覚としてもその通りでしょう。
しかし、生物の時間は物理的時間のように未来に向かって一方向に流れる時間ではないと自分は考えています。
生物の時間は、円環的な時間の流れ方をしていると考えています。
総裁先生も、時間は円環的に渦のような流れ方をすると言われていたと思います。
生命・生物の円環的時間概念は、物理的時間概念とは違った流れ方をすると言うところでとどめておきます。
未来に向かって一方向に流れる物理的時間は全ての人にとって同じ時刻を共有していると思われていますが、時間についての考え方やとらえ方は、人それぞれなので、時間は客観的なものではなく、個人に帰属するのではないかとも思えます。
そこで時間について、誰がどのように考えていたのかをまとめてみます。
多種多様な考え方があるということは、時間とは客観的なものではなく、主観的なものであると結論付けたいと思います。
カントの時間に対しての考え方
時間・空間は現象に依存する規定ではなく、現象そのものを可能ならしめる普遍的条件であり、外的な現象の根底に必然的にあるアプリオリ(先見的)な表象である。
人間の直感は、必然的に時間・空間の中で働かざるを得ない。
それゆえに時間と空間は人間にとって根本的な直観の形式である。
人間の直感は、時間・空間の枠組みの外に出ることはできず、時間・空間という規定された、枠組内でしか、直感することができません。
ゆえにカントは、時間・空間を直観するための根本形式であると言ったのです。
そして時間と空間は、他の条件や経験、考え方などに左右されることがないので純粋直観と述べました。
キリスト教父・アウグスチヌスの時間に対しての考え方
もし時間が恒常であるならば、それは時間ではないであろう。
なにものも過ぎ去るものがなければ過去という時間は存在せず、また、ないものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在も存在しないであろう。
過去はもはや存在せず、未来もまだ存在しないのであるから、どのように存在するのか?
また現在もつねに、現在であって過去に移り変わっていかなければ、それは時間ではなく、永遠であろう。
現在はただ、過去に移り変わることによってのみ時間であるならば、すなわち時間はそれが、存在しなくなるということによってのみ存在するといって間違いないであろう。
時間は過ぎ去っているとき知覚され測られているが、しかし過ぎ去ってしまったら存在しないので知覚することができない。
過去、現在、未来とは心の中に存在し、心以外にそれを認めないのである。
すなわち過去のものは現在の記憶であり、現在のものは現在の直覚であり、未来のものは現在の期待である。
私は時間を測ることを知っている。
しかし私は未来を測るわけではない。未来はまだ存在しないからである。
また現在を測るわけでもない。現在はどんな長さにも広がりを持たないからである。
また過去を測るわけでもない。過去は、存在しないからである。
それでは何を測るのか?
現に過ぎ去っている時間を測るのであって、過ぎ去った時間を測るのではない。
シュタイナーの時間に対しての考え方
存在の本質が物質の世界に現われた瞬間に時間が始まる。
時間はいつ始まるか?
それは本質が現象化する瞬間である。
時間のプロセスの中で、本質が次々に顕現していく。
物質界に自らを現すのと時間が始まるのは同じだ。
ブラバッキーの時間に対しての考え方
空間とは空虚な何かではなく、力に満ちた実態である。
空間は存在への意思である。
そこに何か存在がある時、存在しようとする意志が働いている。
時間論も認識論同様、非常に難しい内容を秘めています。
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