2023年09月17日

時間論 時間とは主観的なものなのか

一般的な時間についての考え方は以下の通りだと思います。

時の流れのある一瞬の時刻。

ある時刻とある時刻の間の長さ

という意味でつかわれることが多いようです。



しかし、上記の時間に対するとらえ方は物理的時間のとらえ方であり、過去から現在・未来へと一様に流れる、一方向に流れる時間で、逆方向に進むことはないと考えられています。

一般的感覚としてもその通りでしょう。



しかし、生物の時間は物理的時間のように未来に向かって一方向に流れる時間ではないと自分は考えています。

生物の時間は、円環的な時間の流れ方をしていると考えています。

総裁先生も、時間は円環的に渦のような流れ方をすると言われていたと思います。



生命・生物の円環的時間概念は、物理的時間概念とは違った流れ方をすると言うところでとどめておきます。



未来に向かって一方向に流れる物理的時間は全ての人にとって同じ時刻を共有していると思われていますが、時間についての考え方やとらえ方は、人それぞれなので、時間は客観的なものではなく、個人に帰属するのではないかとも思えます。



そこで時間について、誰がどのように考えていたのかをまとめてみます。

多種多様な考え方があるということは、時間とは客観的なものではなく、主観的なものであると結論付けたいと思います。



カントの時間に対しての考え方

時間・空間は現象に依存する規定ではなく、現象そのものを可能ならしめる普遍的条件であり、外的な現象の根底に必然的にあるアプリオリ(先見的)な表象である。

人間の直感は、必然的に時間・空間の中で働かざるを得ない。

それゆえに時間と空間は人間にとって根本的な直観の形式である。

人間の直感は、時間・空間の枠組みの外に出ることはできず、時間・空間という規定された、枠組内でしか、直感することができません。

ゆえにカントは、時間・空間を直観するための根本形式であると言ったのです。

そして時間と空間は、他の条件や経験、考え方などに左右されることがないので純粋直観と述べました。



キリスト教父・アウグスチヌスの時間に対しての考え方

もし時間が恒常であるならば、それは時間ではないであろう。

なにものも過ぎ去るものがなければ過去という時間は存在せず、また、ないものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在も存在しないであろう。

過去はもはや存在せず、未来もまだ存在しないのであるから、どのように存在するのか?
また現在もつねに、現在であって過去に移り変わっていかなければ、それは時間ではなく、永遠であろう。

現在はただ、過去に移り変わることによってのみ時間であるならば、すなわち時間はそれが、存在しなくなるということによってのみ存在するといって間違いないであろう。

時間は過ぎ去っているとき知覚され測られているが、しかし過ぎ去ってしまったら存在しないので知覚することができない。

過去、現在、未来とは心の中に存在し、心以外にそれを認めないのである。

すなわち過去のものは現在の記憶であり、現在のものは現在の直覚であり、未来のものは現在の期待である。

私は時間を測ることを知っている。

しかし私は未来を測るわけではない。未来はまだ存在しないからである。

また現在を測るわけでもない。現在はどんな長さにも広がりを持たないからである。

また過去を測るわけでもない。過去は、存在しないからである。

それでは何を測るのか?

現に過ぎ去っている時間を測るのであって、過ぎ去った時間を測るのではない。



シュタイナーの時間に対しての考え方

存在の本質が物質の世界に現われた瞬間に時間が始まる。

時間はいつ始まるか?

それは本質が現象化する瞬間である。

時間のプロセスの中で、本質が次々に顕現していく。

物質界に自らを現すのと時間が始まるのは同じだ。



ブラバッキーの時間に対しての考え方

空間とは空虚な何かではなく、力に満ちた実態である。

空間は存在への意思である。

そこに何か存在がある時、存在しようとする意志が働いている。





時間論も認識論同様、非常に難しい内容を秘めています。

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posted by ガンちゃん at 04:42 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年09月14日

認識論 認識によって天国・地獄にわかれるのです

認識論は難しいと思います。
しかし、ここを通過しなければ、人間の本質や霊的世界を本当の意味で知ることはできないかもしれません。

仏教的な認識論と言えば十八界だと思います。

仏教的認識論

十八界

眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と感覚器官の対象に対応する

色・声・香・味・触・法の六境

感覚器官と対象の関係を認識する

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識

これらの関係を十八界と仏教では読んでいます。

感覚的なものは、過ぎ去るものであり、無常であります。

無常ということは、存在の中に滅びを内包しているということです。

肉体に基づく感覚器官と、感覚器官に対応する対象をどのように認識するかによって天国に行くのか地獄に行くのか決まってきます。

次に神智学的な認識論です。

人間の行動の本質を、思考の根源から問い直そうというのが、神智学における認識論だと思えます。

「動物にも備わっている魂を、精神に作り変えるのは思考の働きである。」
とヘーゲルは述べています。

それほど思考というものが、人間にとっての本質そのものであるということなのでしょう。

我々の前に事物が謎めいて現れてきます。

それは事物そのものの成立過程に立ち会っていないからです。

思考を通して初めてその成立過程を考察することが出来るのです。

神智学における認識の出発点は思考であり、理念や概念からではありません。
理念や概念は思考を前提として初めて獲得できると考えるのです。

私たちは、観察を通して知覚内容を得ることができます。

しかし、その知覚内容は、無秩序でバラバラな混沌の状態です。
そのバラバラな知覚内容を統一的にまとめ上げるのが思考であるのです。

知覚内容は思考を通して概念と結ばれます。
概念から照らされる光によって初めて知覚内容に意味付けがされるのです。

しかし観察による知覚内容が増えるに従って、初めにあった知覚内容と、概念に矛盾対立が生じてきます。

知覚内容の範囲が広がるにつれて、これまで信じていた世界像を訂正しなければいけなくなります。
新たな知覚内容に対して、今までの概念では意味付けができなくなり、自分の内に対立が生じてきます。

この対立、矛盾を克服していくことによって新たな概念が形成されるのです。

対立矛盾を止揚統一していく過程こそ魂の進化なのだと思います。

このように弁証法的な過程を通してより高度な概念が形成されいきます。
知覚内容は概念によって助けられ、概念は知覚内容によって高度化していくのです。

ところで、観察による知覚内容が変化するのはなぜだろうか?
我々は対象を観察する際に感覚器官を通して知覚します。
しかしこの知覚内容は、身体器官の性質に依存した形で知覚されるのです。

目の器官、耳の器官は複雑な機能をしている為、神経を通して脳に伝わる間に情報が変化してしまいます。
ですから対象をありのままに見ているとはいえないのです。

例えば、色が赤に見えるのは、目の器官の性質によります。
感覚器官から得られる知覚内容は、身体の性質に依存している為、事物の本質を見ているのではなく、対象と感覚器官との関係を認識しているにすぎません。

先ほどの仏教の認識論における十八界と同じです。

また、感覚器官は不完全な為、総体の中の一面、断面しか確認できないのです。
感覚器官でとらえる現象は、変転変化するために、限られた時間内でこれが真実だと認識してしますのは過ちの原因になります。

例えば、種から芽が出てやがて花が咲きますが、種だけを見てこれが花の本質だと認識したとしたら大変な間違えでしょう。

一定の時間の枠内で、その対象の姿が真実をうつしていると見誤ってはなりません。

知覚内容は思考を通して概念と結びつけることなしに、本当の意味で現実を認識することはできないのです。

花の概念を認識するには、まず花の知覚内容を持たなければなりません。

その後に概念の総体の中から特定の概念を取り出してきて、知覚内容に意味付けを与えるのです。


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posted by ガンちゃん at 02:57 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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