2023年09月27日

世界宗教・幸福の科学と菩薩への道

日本人と諸外国とでは、平和の考え方が違うようです。



日本人は何もしないことを平和と考えていますが、諸外国では正義と悪の価値観が明確で、悪は徹底的に粉砕し、神の正義の実現こそ平和と考えています。



幸福の科学は、正義と平和に関して現代の問題にとりくんでいます。



世界宗教は唯一、一つのものから出ています。

ゆえに本来は対立するものではないはずです。

教えが、自国中心の歴史観で違いが出てきています。

違いを埋めていくのは幸福の科学で説かれている仏法真理以外にはありません。



地球人になるために(同化する為)、宇宙人がいろいろな星から来ています。

ゆえに考え方の違いは当然ありますが、異なるものの価値観を包摂していく方向にもっていくことが大切であると思えます。



幸福の科学の教えには、すべての宗教を受け入れる器があります。



現代の菩薩の使命・天命は、仏教時代よりも地球的な規模で考えていかなければならない時代です。





対立しているものの中にあるシンプルで普遍性、共通性がある教えは何か、これを明らかにしていくことが大事なことです。



枝葉の部分を取り払って、根本の教えに立ち戻ることが大切なことだと思えます。



宇宙人の思想を紹介している理由の一つが、それによって地球系霊団の教えが明らかになってくるからです。





キリスト教の愛の思想、仏教の慈悲、他を愛する気持ちが大事です。



自分自身を大事にする考え方は大事ですが、自我が強すぎると間違った方向にいくことが多いので要注意です。

謙虚になる必要があり、反省が大事であると主が言われています。



努力精進と信仰が大事であると思います。



信仰心がなくては全てが始まらない。



信仰心が前提になければ真理を説いても届きません。

信じることで眼が開かれます。

これは総裁先生が個人的崇拝を求めているわけでありません。

主は、現代の人のみに教えを説くのでなく、未来の人たちに対しても教えを説かれました。

少なくとも3000年は残る教えを説くと言われていたと思います。

この教えの上に築かれる文明こそ発展する、ユートピアの姿であると言われています。

現代の文明の延長上に未来はありません。



人間の心は、どちらかを選ぶようになっています。



人を幸福にする方向か不幸にする方向か。



世界に対して、責任を果たせる日本になるべきである、その方向で各人が努力することが大切であると思います。



菩薩とは、仏になろうとして努力している人。仏になる前の状態。

釈尊も悟る前は、自分を菩薩として認識していたと言われています。



例え、大会社の社長であっても、その根本の人生観に誤りがあれば、あの世において天国に帰ることはできません。

この世の地位、名誉、財産、学歴、家柄より、この幸福の科学の教えを広げようとしている人が絶対に偉いと言われていました。



この世的に偉いといわれている人が問題児。

全てではありませんが、根本的なところで唯物論の考え方を持っている人は問題があります。



勇気をもち、信じる心に基づいて行動していくことが菩薩への道なのでしょう。



釈迦の本心に菩薩の本質が書かれています。

ここで言う菩薩とは7次元に存在する菩薩という意味です。



「菩薩の認定はきわめて厳しいものがあり、その認定がなされるまでには、かなりの年月をかけて実績を積まなければなりません。菩薩になるには阿羅漢に達してから約千年の歳月を要することになります。それだけの修行を重ねていかなければ、菩薩の一員にはなれないのです。

したがって、菩薩を目指す修行者は、千年もの間、不退転の気持ちで努力し続ける気概が必要です。」



先ほど、仏になろうとして努力している人を菩薩と定義されていましたが、実際に7次元に入るには相当な精進が必要で、千年間努力精進しつつ、愛の気持ちを深めていかなければなれない。

つまり自分に対して厳しく、簡単に自分が出来上がってはいけないと読み取ることができると思います。



簡単に、自分が菩薩になったと思わないで、あくまでも淡々と精進する姿勢が大切であると思います。
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posted by ガンちゃん at 19:35 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年09月23日

高度な哲学を凌駕する幸福の科学の仏法真理 主の謙虚さに学ぶ

人間の認識には限界があります。

宗教家としての在り方と哲学者としての在り方の違い等を含めて考えてみます。


真理に込められた内容を深いところで理解することは、その人の魂の成長度と比例関係にあると思えます。



仏説・正心法語の中の真理の言葉・正心法語の中の一節に



「自他は これ 別個に非ず 一体なり」とあります。



非常に平易な言葉で書かれています。



唯物論者は、自分と他人が一体であるという認識はしないでしょう。

おそらく、自分と他人が一体であるというのであれば、その理由を説明しろ

と言ってくるかもしれません。



自他一体の理由は全ての人に神性、仏性が宿っているからです。



というとおそらく、人間に宿っている仏性を証明してみろと言ってくるかもしれません。



仏性が宿っている理由は全ての人に愛の気持ちがあるからです。



幸福の科学の仏法真理から説明するとするならば、このような説得になると思います。



しかし、哲学者の認識は客観性を重視する傾向があると言えます。



カントは、人間の概念は、物の本質を知ることはできない。

概念が認識できる範囲は、物の本質の一部分すなわち、現象として現れた部分のみです。

五感で確認できる領域、あるいは感覚器官を通して経験できる範囲での現象としての部分だけに限定されています。



しかし、



ヘーゲルは概念こそ自然物の本質で、相手の概念を深く認識することで相手と一体になったのと同じことであると考えます。

概念と存在は別のものでなく、自分の内にある概念を深く知ることで、相手にある共通する概念を知ることになり、それは自分と他者が一体になったのと同じことである。

といわれていたと思います。



ヘーゲルは自分のうちにある概念を深く掘り下げることで、相手にもある共通する概念を知ることになり、相手にある概念を知ることができれば、自分と他人は一体になったのと同じであるという認識なのだと考えます。



カント哲学ですと認識できる範囲に限定をかけています。

感覚器官で認識できるは、本質の一部分が現象として現れた領域です。

五感で確認できる領域、あるいは感覚器官を通して経験できる範囲での現象としての部分だけに限定しています。

ですからカント哲学では仏性の証明は難しいし、自他一体の悟りをつかむのは無理だと思います。



宗教家と哲学者の徹底的な違いは、宗教家は本来難しい真理をいかに簡単に平易に説明するか、相手に合わせて簡単に説明できるかが重要になります。



哲学者はいかに論理的に整合性をもって理論を組み立てるかということでしょうか。



幸福の科学では、現代の経典である仏説・正心法語に書かれている

「自他は これ 別個に非ず 一体なり」

を毎日当たり前のように読誦されているとおもいますが、哲学的に自他一体の認識を得るには容易なことでないということです。



しかも、霊的世界の真実に裏付けされた教えであるゆえに、哲学や科学では到達できない真理が解き明かされています。



更に、大川隆法総裁先生は、人間としても謙虚に努力されています。

その姿は、教えのみならず、実践の中での学びにも大変、勇気づけられます。



この後ろ姿を見たら、自惚や慢心なんかできませんね
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posted by ガンちゃん at 23:30 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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