2023年08月09日

仏法からみる日本民族の問題点と多様な価値観を受け入れる仏教の可能性

日本人の宗教に対しての考え方を考察しますと以下のようになります。

1つは唯物論的な科学者や哲学者、左翼系等の方で宗教自体を見下しており、自分たちの方が学問的にも優れた勉強をしているので、あえて宗教に助けを求める必要性を感じない人達。

2つめは、この世的な能力不足で社会的に対応できない人が、何らかの自己実現や自分の居場所を求めて宗教ジプシーになる人達。

2つ目に関しては、仏教を学ぶ宗教者が現代社会に適応するには、識と般若の両方の智慧が必要であると思います。

識の部分は、この世的な仕事能力や問題解決能力の部分です

地上的な悩みや問題を解決することにより心の曇りを無くすための智慧です。

「世間解」の部分がしっかりとしていることで、悪霊の侵入による人格破壊をふせぐことにも繋がっていくと思います。

しかし、日本人は宗教的な般若の智慧には関心がないようです。

仏法を学んで知識を経験に生かして、智慧にかえるという方向にいかず、何を拝めば救われるのか手っ取り早く教えてくれという感じでしょうか?

本来の仏教が日本に伝わることで、仏の教えがどのように変容したかを渡辺照宏氏の「日本の仏教」を参考にしながら考えていきたいと思います。

『我が国の仏教教団としては、経典は理解するためのものでなく、儀礼に用いるのが第一義であります。

まして一般信者の信仰の裏付けとして、

例えばキリスト教信者におけるバイブルのように、仏教経典が与えられたことは無かったと言ってよい。

ヨーロッパでも一般の信者がパイブルを読むことを禁止されていた。

ただ日本ではそうした要求すらなかったので、禁止する必要さえもなかった』


つまり、日本人の宗教に対しての考え方は、神の教えを理解し、実践するためのものではなく
念仏を唱えれば、どんな功徳があるかといった浅い理解で止まっているのではないかと思います。


本来の仏教は、自助努力や精進を重要視し自己の魂の向上を目指していくと同時に智慧を得ることが修行の目的であったはずです。

多くの人に慈悲の心でもって教えを広げていくことが仏教を学ぶ修行者のあるべき姿であったはずです。


渡辺照宏氏は以下のように述べています。

「仏教の高い理想を追う人が民衆の、広くいえばあらゆる生き物の幸福を計るということは、仏教の本来の立場から見て当然である。
自利利他円満(自己と他人との目的の完成)と上求菩提下化衆生(上に向かっては理想や悟りを求め、下に向かっては衆生を幸福に導く)とは言い古されたことであるし、釈迦自信の生活や、その後継者たちの業績をみてもはっきりとあらわされている。
仏教における教説や学説も実践の徳目もすべて自他の理想の完成という一点にかかっている。」


仏陀やイエス様が2500年、2000年と黙って沈黙しているのでしょうか。

黄金の法に書かれているように、多くの光の天使たちが地上に生まれ天上界から指導されていたはずです。



霊的世界の善悪はこの地上における曖昧な善悪の価値観と違い、明確にどちらかにかわれることになります。

慈悲と関連して仏教の特色に寛容ということがあります。
一神教の宗教では、自分の教理と異なるものを異端とか邪教とか言って悪魔のごとく忌み嫌うことがあります。

しかし

仏教は特殊な教理を人に押しつけることではなく、各自が内面に具えている菩提心をめざめさせて、人間の完成に至るように指導することを眼目とするものであるから、たとえ異なった見解や信仰形態を持っていても一概に排撃することはしません。

仏教は、信仰形態や見解が違っていても他の宗教に対して寛容です。

ですから、

仏法は、それぞれの対立関係にある宗教同士が理解しあえる可能性を秘めていると思います。


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posted by ガンちゃん at 00:59 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月06日

霊的覚者がみる食べ物の霊的パワーで悪霊を吹っ飛ばす

私たちが毎日食している食べ物には二面性があり科学的に解明されている栄養以外に、実は一段深いところから観察すると
霊的エネルギーが潜在化しています。

食べ物には、物質な表面的部分と、その背後にある霊的なものが共存しています。

人間は肉体の内に宿っている超感覚的なものこそが高度な現実性を有しています。

人間は死ぬと肉体が諸行無常の法則で崩壊に向かいますが、地上に生きている間は、霊的存在が肉体の崩壊と戦っています。

自分の意識が変化すると、食べ物の好みも変わってきます。

人間は普遍的な方向に関心を持ち努力を続けると菜食の方向に行くようです。

いろんな本を読んでいるとそのように感じます。

共感や反感を持ち、感覚的な情熱を持つ人間がいるのは肉食が原因であるとのことです。

ある程度修行が進むと、霊的な感覚が顕在化してくる場合があります。

霊的な感覚が磨かれてくると、霊的な音が聞こえてきたり、声が聞こえてき始めるという現象が起きてきます。

心の修行がしっかりできていない状態で、そのような声に耳を傾け始めると危険であると言われています。

真実、霊的世界に参入している人やそのような修行を積んでいる人は、人に対して声をかけてくる霊は高級霊よりは低級霊といわれる存在の方が圧倒的に多いと知るべきであり、自分に対して非常に厳しくみつめる態度が大事であると述べています。


このように、低級霊や悪霊からの惑わしが具現化してきたとき、霊的エネルギーを含有している食べ物を食して、霊的エネルギーを外部から取り入れるということも大切であると思います。

もちろん、修行を通して心を磨き悪霊と波長が合わないようにするということが王道だと思いますが、肉体が弱ると精神力も弱ってくるので、肉体に必要な霊的パワーを含んでいる食べ物を食するという考え方は有効であると思えます。

ニンニクやニラなど、通常の栄養以外にも霊的パワーを含有している食べ物をとることで悪霊の惑わしに対抗する力を得ることができると思います。

因みに ・・・・

アルコールに関しては、第一に人間の思慮分別、人間の心のいとなみに関係してくるそうです。
これも飲みすぎた場合であって適度なアルコールであればそれほど問題はないと思います。

中道をこえて飲みすぎると、女性の場合は、人間の中にある地上的なものが崩壊に向かい

男性の場合は、周囲にあり人間の内にある動的、空気的なものが崩壊に向かうそうです。

つまり、自分自身の内的なものが破滅に向かい周囲に対しても崩壊する方向に向かうということです。

ですから、お酒を飲みすぎると同じアルコール好きの悪霊に対抗することはできないでしょう。



ただ、これは唯物論的に考えて物質が精神を規定しているということではありません。

そもそも思考をしない人が野菜ばかり食べても、本質的なところはあまり変わることはありません。

もし物質だけが活動するならば、牛肉や豚肉を食べたならば、人間も牛や豚の性質を受け取り、豚や牛に近づいて行くことになるはずです。



一般的に精神生活をし始めると、肉食ではなくなってくるそうで、肉食を禁止するというよりは、健全に進化した本能が肉食を寄せつけなくなるということのようです。


余談ですが・・・・

コーヒーに関しては、論理的な首尾一貫性を物質的に要求します。
コーヒーを飲むことによって、事実に即した首尾一貫性を引き出すとのことです。


逆に紅茶は、精神を集中する方向とは反対に、精神を解放させる働きがあるようです。


いずれにしても精神性の向上と肉体の健康維持の両面が、悪霊に対する防波堤になるのではないかと思います。

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posted by ガンちゃん at 03:45 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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