まずは、「勤勉な努力家」であることを条件にあげています。
インスピレーションを受ける前提条件の一つとして、自助努力が大切です。
常識的に考えても、怠け者にインスピレーションが降りるわけがなく、地上に降りた人間側の努力が最低限求められます。
努力しないで降りてくるインスピレーションは、地獄界の霊的影響であることがほとんどです。
霊界には、その人を破滅させようと考えている悪霊がいます。
まずは常識人として、仕事や勉強を誠実にすることが大切です。
日常生活や仕事の中で、心が乱れることが多々あると思いますが、そのことに関して怒ったり、怒らなかったりすることが、自分以外の何かに依存しているとするならば、私は自分自身の主人であるとはいえません。(厳しい)
自己が確立できていないので、心が揺れている間は、天上界のインスピレーションも降りてこないでしょう。
慎重な態度がどんな場合でも必要です。
性急に進歩を求めて(会員)としての自覚を忘れ、高貴、善良、もしくは物質的な現象感覚の一片でも神秘修行の過程で失うようなことがあってはなりません。
反対に自分の道徳的な力、内的誠実さ、観察能力が修行を通して高まっていかなければなりません。
また修行の過程で、隣人や動物に対しての同情心、自然美に対する感受性をたえず高かめていくように努力しなければなりません。
この意識的な努力を怠ると、同情心も感受性も、修行の過程で失われてしまう可能性があります。
同情心や感受性が鈍くなってくると、心情はかたくなになり、現実感覚が鈍くなっていくようです。
次に、「専門外の分野にも踏み込むこと」とあります。
本当の意味においてインスピレーションを受ける人は、人知れず努力しているものです。
そして、その努力の方向性として自分の専門領域以外にも踏み込んでいることが大事であると言われています。
一つの領域しか知らないと、下からの惑わしをチェックできない可能性があるからだと思えます。
例えば、仏教の教えの中の法華経は知っているが、あとは知らないとなると、仏教の教えの他の領域から攻められると惑わされることになります。
つぎは、「情報遮断」・「情報収集」この両方の重要性が説かれています。
情報を取らなければ、新しいものを生み出せないので情報は必要ですが、情報の洪水の中でどう生きるかが大事であり、現代では情報収集と情報遮断の両方を使い分けた人が、正しいインスピレーションを受けるための条件を満たしていると考えられます。
インスピレーションを得るためには、沈黙の時間も必要です。
19世紀の思想家、カーライルという人の言葉を引用するならば
「ハチは暗闇の中で蜜をつくる。脳は沈黙の中で思想をつくりだす」
沈黙の大切さを説いています。一定の間、誰にも邪魔をされない「孤独な時間」を取ることで考えを煮詰め“蜜”をつくるということです。
次にインスピレーションを受け取るため修行態度について考えてみます。
シュタイナーの「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」という書物には、
第一に
『真剣に超感覚的認識を求める人なら、自分に対し高次の秘密に導いてくれる導師を見出すまで、どんな努力も、どんな障害も恐れてはいけないということ。』
努力の大切さを書かれています。
第二は
『認識への正しいまじめな努力が存在するとき、どんな状況の下にあっても伝授する側がその人を必ず見つけ出してくれるということである。』
仏の眼は、努力精進している人を見逃すことはありません。
どんな人間の中にも、感覚器官をこえたより高次な認識、高次な世界にまで認識を拡げることのできる能力(可能性)が潜在化しています。
過去の歴史でも、神秘家やグノーシス派、ギリシャの哲学者などは、古来より手で触ったりできる物質世界の事物と同程度に、霊的世界、魂の世界も現実に存在すると語っています。
現在の我々の時代は、目に見えない尊い存在を信じること崇拝することに、最も注意を払う必要があります。
現時点での文明生活は、目に見えない尊い存在に対して、尊敬したり、献身的にする、崇拝したりする姿勢がありません。
逆に、酷評したり、裁いたり嘲笑したりします。
どんな裁きの気持ちや、批判も魂の中の高次な認識力を失わせてしまうようです。
魂の栄養源として、尊敬、畏敬の思い、敬意などの感情を健全で力強いものにしていくこが、認識活動に活力を提供していくことになります。
逆に、認める価値のあるものを過小評価したり、軽薄したり、反感を感じたりすることは、正しい認識活動を麻痺させ、不活発にしていきます。
「孤独の時間」をとり、沈黙や静寂の時間の中で本質的なもと過ぎ去るものを区別していく努力が大切です。
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