2023年07月19日

カントの言う道徳律をこえた愛とは

道徳律(道徳法則)とは、道徳行為の規範となる普遍妥当的な法則を言います。
『義務』を重視する倫理学の立場で主として用いられる概念でありますが、道徳を神の命令と考える立場や、カントの提言的命令の説などがあります。

提言的命令とは、無条件的なもので行為の結果や目的に無関係に、行為そのものに価値があるとして命令するものです。

ここで言う普遍妥当的というのは、例えば日本おいては正しい行為であるがヨーロッパでは正しくないでは普遍的ではありません。

また、1000年前は正しいとされていましたが、現代では正しくないという行為も普遍的ではありません。

時間的・空間的にも正しいという意味であると理解しています。



カントは行為に対しての結果よりも、その動機にまでさかのぼって道徳性を問うたと思いましたが、義務で行う行為が善だとしても、はたしてその行為は最高善と言えるのでしょうか?

義務で行う行為は、その人自身の心から生じた行為ではなく、条件(義務)という外から強制された善であり、その条件がなければ、正しい行為を行うかどうか定かではありません。


善の行為、正しい行いも、愛の思いから生じた行為こそ理想の善であり、動機においても正しいことであると思います。

しかし、愛の思いが自然発生的に起きてくることは、まずないと考えてよいと思います。

愛の思いが自然とでてくるためには、自分に降りかかる試練を経て、自分の苦しみや悲しみを通して相手の気持ちを理解する、あるいは相手に共感する必要があるのではないでしょうか



ある哲学者、思想家が以下のように述べています。

「愛による善とは、道徳的義務としての善を、継続して行い続けた人にして初めて、獲得しえる境地である。

訓練・努力によって愛の心とはどういうものか、ということがはじめて魂の奥深くに刻み込まれる。

はじめは義務感から行っていた善なる行為が、長い間の実践と訓練、経験の量などによって、徐々に深化され、やがて与える愛の喜びというものが、まるで自らの魂の本性であるかのような深さまで、深く刻印されてゆく。

いわば道徳的義務としての善行とは、道に不慣れな人が、はじめてきた道を、地図を頼りに歩いているようなものだ。
これに対して、愛による善行とは、その道をすでに知り尽くした人の歩き方に似ている。

道を知りつくす前は、誰しも最初は、その道に不案内なものだ。
しかし、その道を何度も何度も歩いてみることで、やがてその道に精通するようになる。
その道を歩くのが、何の苦も感じない、当たり前の行為に変わってゆく。

これと同じように、道徳義務としての善行の実践・繰り返し・訓練によってはじめて、人は愛による善行を、自分自身の自然の感情として実感できるようになるのではないか」


もちろん、地獄に落ちるぞといった、恐怖心によって相手の行為を抑制することも必要かと思いますが、それは最終的に目指すべき方向性ではないことも確かです。

与える愛を事前に行えるようになる為には、多くの実践が必要なのでしょう。



自己の良心に自己が従うこと、自分で自分を律する(自律)ことこそが、義務で行う善でなく自由でありながら、自分の意思に基づいた最高善であると思います。





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posted by ガンちゃん at 18:35 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年07月18日

十字架の女3 アーリマンの働き

アーリマンという存在は知ってはいましたが、深く考えたことはありませんでした。

ゾロアスターの霊言やシュタイナーの本等で知る程度でしたが、地球の歴史の闇の部分に相当介入してきているようですね。


アーリマンは、救世主の教えを微妙にすり替えて、人類を間違った方向に誘導しているのではないでしょうか。
そして、間違った方向とは人類を唯物論的思考へと導いているように感じられます。

霊的観点から見れば、有限性による一時的なものをアーリマンの作用によって永遠なるものと勘違いしているのではないでしょうか。


愛といっても目に見えない抽象的なものは理解できず、奪うもの、何かをしてもらうことと考える人が大半なのではないでしょうか。


ある哲学者は、『愛とは自分と他人が自他一体となる意識である』と言われていたと思います。

幸福の科学の教えからさらに深く洞察するならば、人々が愛し合う理由が見えてきます。

人間の霊性の深いところには神仏と同質の光を有しています。
全ての人間がこの光を有しているからこそ、自他はこれ別個にあらず一体なりということになります。


霊的能力、霊的知識や真実の学問的知力がなければ、到底勝ち目がなく自分が神や天使だとうぬぼれているようでは簡単に騙されてしまうでしょう。

人間が霊界から地上に生まれてくる理由の一つは、不自由な物質世界を経験することで、真なる意味において霊界のすばらしさを知ることにあるのと思います。

物質世界に降りてきたからこそ、霊界のすばらしさを知ることができるのです。

アーリマンは、真理の一部を利用して全体的には間違った方向に導いていきます。

戦争に正義なしと言われれば、一見正しいことを述べているようにも感じられますが、要するに何が善で何が悪かということがわからないということでしょう。
言葉の響きだけで真理知識に裏付けされていません。

平和を唱えれば誰も反論できませんが、実は神の正義を知らない、善も悪もわからないだけということかもしれません。

ですから、アーリマンの働きは真実の一部を利用して全体的に人類を間違った方向に導いていくのでしょう。

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posted by ガンちゃん at 04:16 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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