大師とかグル、霊的マスター
仏教的には最終解脱者あるいは、悟りたるもの目覚めたる者という意味でしょうか。
霊的指導者になっていくためには、厳しい霊的修行を積まなければならないことでしょう。
ヘレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー夫人は以下のようなことを述べています。
「道を探し求めよ。しかし、おお弟子たちよ、旅立つ前に清き心をもて」
これは、霊的な覚醒者が必ず述べる言葉だと思います。
イエス様も、
「心清き者は幸いである、彼らは神を見るであろう」山上の垂訓
「心をいれかえて幼子のようでなければ、天国にはいることはできない」
といわれています。
さらに、ブラヴァツキー夫人は、
「最初の一歩を踏み出す前に、真実と虚偽、移り変わるものと永遠なるものを見分けれるようにせよ。
何よりもまず、表面的に習ったことと魂の区別を学べ」
と言われています。
厳しいですよね。
霊的なる修行に入る前の段階で、過ぎ去っていく表面的なことと、魂にとって大事なこと普遍的なことの
区別ぐらいはできるようにしてきなさいということでしょうか。
霊的な修行に入るためには、このくらいのことがわかるようにしなさいということですから、
最初のスタート地点に立つためには、究極の自力門が必要ということでしょうか。
霊的世界に参入するということはそれだけの厳しさが必要であるということなのでしょう。
なぜ、心が清くなければならないのか
それは、心が清くない状態で霊的能力を開いてしまうと、心清くない悪霊、悪魔たちの操り人形にされてしまうからです。
幸福の科学の教えには、随所に謙虚にしなさい、自分の過去の実績を確かめながら努力しなさいと教えています。
霊的能力が開花することで、霊的世界を実感として知ることができるという意味では、悟りのきっかけにはなるでしょう。
しかし、霊的能力は悟りとは違うということも教わっています。
一般の人が面白半分に霊的能力を開いてしまうと、自分自身でコントロールができないので、
宗教には信仰心が大切であるといわれているのです。
主と信仰を通して結ばれていることによって、霊的な危険から守られているということだと思います。
地上的なる価値観や肉体煩悩、欲望、怠け者、他人依存型の人生を歩んでいるようでは、
そのような霊的覚醒への扉が開くことはないのでしょう
私自身を含めて自分に甘いようであるならば、霊的秘儀や奥義を授かる扉は、永遠に開かないことでしょう。
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