プラスの面とマイナス面があると思います。
この辺の単純な区別を明確にしておかないと、信仰心が揺れるということになるのではないかと思います。
疑問を持つという考え方のうち、魂の方からストレートに沸いてくる疑問は正しい疑問だと思えます。
それは、探究心と言い換えてもいいかもしれません。
正しい疑問は、信仰心とも深い関係があると私は信じています。
信仰心があるからこそ、主はこのような法を説かれたけれども
どのような深い意味があるのだろうかと、知りたいという欲求にかられます。
魂の要求として、どうしても知りたいという気持ちは正しい疑問の範疇にあると思います。
では、正しいとは思えない疑問とは何でしょうか
それは、私たちが猜疑心と呼んでいるものです。
この猜疑心という疑問は、信仰心を弱める作用があると考えられます。
猜疑心の根底には何が存在するのかといいますと、いろんな人から害されたという経験、
騙されたという過去の経験に基づいているのではないかと思えます。
このような経験をすると、他の人を信じることができなくなるものです。
それゆえに、猜疑心は疑問というよりも懐疑心と言い換えてもいいかもしれません。
懐疑心、猜疑心は物事をネガティブに否定的に見ていこうとする傾向があります 。
そこには、
自ら自身が良くなっていこうという思いもなく、他の人を生かしていこうという思いもありません。
そこにあるのは、自己保身だけなのではないかと思えるのです。
解脱の言葉『仏説・八正道』には、
「自分の 保身に こだわりて
他人を 害し
結局は
自己をも 滅ぼす 所業なり
獅子 身中の虫 己心の魔
仏性の敵 そこにあり」
と書かれています。
自己保身は自分も他人も滅ぼす原因なので、気を付けないと自滅する原因になるかもしれません。
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